「熱血漢」で「本当のリアリスト」岡本行夫さんを悼む 新・日本人のフロンティア(6)

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 昨年10月に緒方貞子さん、11月に中曽根康弘元首相、12月に中村哲さん、そして今年4月に岡本行夫さんと、立て続けに大事な人を亡くしてしまった。

 中曽根さんは101歳、緒方さんは92歳。中村さんは73歳でまだ若かったが、危険な場所だったから、衝撃はあったが、さほど驚きはなかった。

 しかし岡本さんは74歳、いつも若々しかった。それが東京で「新型コロナウイルス」に倒れるなんて、未だに信じられない。

 岡本さんが最初にその存在を際立たせたのは、まず、1990年の湾岸戦争当時、外務省の北米一課長として日本のプレゼンスを示すために獅子奮迅の働きをしたことであった。

 また1996~98年の橋本龍太郎内閣において、内閣総理大臣補佐官として沖縄基地問題解決のために大活躍したこと、2003~04年には小泉純一郎内閣において、やはり内閣総理大臣補佐官としてイラク復興支援のために現地を走り回り、その過程で部下の奥克彦大使らを亡くしたことも、よく知られている。

 五百旗頭真・伊藤元重・薬師寺克行編『岡本行夫――現場主義を貫いた外交官』(朝日新聞出版、2008年)も、この3つの活動を中心に据えたもので、今読んでも感動的である。

 岡本さんと最初に会ったのがいつだったか、よく覚えていないが、1994年6月にアメリカのニューハンプシャー州の名門校であるダートマス大学で開かれた会議に一緒に行ったことはよく覚えている。

 参加者の多くは学者で、外交官出身者は少なかったが、すぐ打ち解けて、みな岡本さんを好きになった。日米関係全般を、美しいキャンパスの中で自由に議論する楽しい会議だった。

タスクフォースでの議論

 2001年には、小泉内閣が対外関係タスクフォースという組織を作ったが、これは“小泉タスクフォース”と呼ばれた。

 当時、田中真紀子外務大臣の暴走で外務省がほとんど麻痺する中、官邸主導で外交をリードしようと、数名のチームを作ったのだ。

 実際は、これは小泉タスクフォースというよりは福田タスクフォースであって、福田康夫官房長官がすべての会議に出席しておられた。

 その座長が岡本さん(内閣官房参与)で、岡本懇談会と言われることもあった。

 参加者は、岡本さん以外は、小此木政夫(慶應義塾大学教授、韓国政治)、田波耕治(前大蔵次官、国際協力銀行副総裁)、谷野作太郎(前中国大使)、張富士夫(トヨタ自動車社長)、西原正(防衛大学校校長)、山内昌之(東京大学教授、イスラム研究)、渡辺修(前通産次官、ジェトロ理事長)の各氏、それに私の8人だった(肩書はいずれも当時)。

 最初の議論のテーマは、「9・11」(同時多発テロ)後の対応だった。このタスクフォースは本来、もう少し後にできることになっていたのだが、「9・11」が起こったので、成立を急いだ記憶がある。

 アメリカはただちに、同時多発テロは「アルカーイダ」がやったと判断し、アフガニスタンの「ターリバーン」政権にアルカーイダのウサーマ・ビン・ラーディンの引き渡しを求めた。ターリバーンがこれに応じないので、アメリカはアフガニスタン攻撃を始めた。西洋諸国をはじめ、多くの国がアメリカの行動を支持した。

 日本は軍事作戦に参加はできない。しかし、何もしないわけにはいかない。そこで、インド洋でアメリカ(およびその他の国々)に対する給油活動をしようということになった。そのための法律を作るのに40日ほどかかった。この種の法律としては大変早かったが、それでも世界の国々と比べると遅かった。

 日本の場合、自衛隊をインド洋に派遣することについて、中国や韓国が批判することが考えられた。それで、小泉首相自ら中国と韓国を訪問し、説明というか、アピールしようということを、このタスクフォースで考えた。

 小泉首相が盧溝橋に行って戦争記念館を訪問し、戦争は2度とあってはならないということを言い、韓国では明洞あたりで若者と交流してもらおうというようなことを、このタスクフォースで議論したことを思い出す。要するに、外交安全保障の問題だけでなく、歴史問題の炎上を未然に防いでいくことを、われわれは考えていたのだ。

 全体にタスクフォースの懸念の対象は中国だったが、決して反中国ではなかった。岡本さんは、自らが設立したコンサルタント会社「岡本アソシエイツ」の仕事で、中国関係ビジネスにも多く関与して、中国の労働者が懸命に働く姿を何度も見ていたため、むしろ彼らを高く評価していた。

「チクショー、ひでぇことしやがる」

 タスクフォースの仕事でもっとも印象に強いのは、2002年2月にアフガニスタンに行ったことだ。

 同年1月の、アフガニスタン支援を決めた東京会議のあと、

「日本に何ができるか見に行きませんか」

 と言われて、岡本さん、渡辺さん、山内さん、それに私と、タスクフォースからは4人。それ以外に、日本の紛争地における人的貢献の草分けである喜多悦子先生(現・笹川保健財団会長)、お茶の水女子大の原ひろ子先生(故人)、国連世界食糧計画(WFP)の玉村美保子さん、外務省から紛争地での経験豊富な岡村善文さん(現・OECD=経済協力開発機構=日本政府代表部大使)などが参加した。

 アフガニスタンの首都カブールの飛行場に着くと、ターリバーンのジェット機などは、米軍のミサイルでみな破壊されていた。滑走路はボコボコではなく、1機ずつ、ミサイルで簡単に破壊されていた。こうすれば飛行場の破壊は少ないので、すぐに使うことができる。

 最初の視察地の1つは女性のための病院で、おそらく我々がその病院に初めて入った男性だったかもしれない。女性の表情は晴れやかだった。

 カブールは、これから復興だということで国連関係のいろんなミッションが来ており、ミニ・バブルが起きていた。

 少し大きな家は、みな部屋をゲストに提供していた。共用のシャワーがあるくらいで、石の上に板2枚を敷いたところに、スーツも着たまま靴もはいたままで寝て、1泊40ドルくらいだった。カブールとしては良い値段だった。

 地雷除去の現場や、米軍のクラスター爆弾の跡も見に行った。地雷は作るのは安く、100円もしないが、除去にはかなりの費用がかかる。これを、われわれ国際社会が担わなくてはならない。クラスター爆弾は、中に入っている子弾が爆発して大きな破壊力を持つもので、岡本さんは、

「チクショー、ひでぇことしやがる」

 と言っていた。岡本さんはリアリストだが、同時に弱者に対する熱い思いを持った人道主義者で熱血漢だった。

「安全保障では右、歴史問題では左」

 2014年には、『朝日新聞』の慰安婦報道について検証する第三者委員会にも一緒に入った。私も岡本さんも、『朝日』の慰安婦報道が事実に基づかず、日本の評判を大いに傷つけたことを批判していたが、その『朝日』が方針を転換するなら一肌脱ごうではないか、というのが参加の動機だった。

 結果は、右からは批判され、左からは評価されず、『朝日』にも感謝されず、いささか徒労だった。ここでも、慰安婦の方々に対する同情・共感をもっと示すべきだという点と、他方における慰安婦問題の政治的利用に対する反対という点で、われわれは共通の論陣を張っていた。

 2015年、安倍晋三首相が戦後70年を記念する談話を発出するにあたり、歴史認識を整理するための懇談会(「20世紀を振り返り21世紀の世界秩序と日本の役割を構想するための有識者懇談会」)を作ったとき、私は座長代理であったが、岡本さんにも入ってもらった。

 岡本さんがとくに言われたのは、歴史の記憶の根深さである。個人として、岡本さんは戦争で捕虜になった元アメリカ兵などと長くつきあって、徐々にその恨みを解してこられた。

 岡本さんは、

「自分は安全保障では右、歴史問題では左だ」

 と言っていた。

 これはちょっと説明がいる。

 右と言っても、世界標準でいえば常識的な、必要最小限度の防衛力は保持すべきだということにすぎない。

 歴史問題で左というのは、被害者の立場に寄り添うことを重視するということで、それは、アメリカでもオーストラリアでも中国でも韓国でも同じだった。中韓から来る誇張された批判に同調するようなことはなかったが、それでも被害者の心情には寄り添おうということだった。こういう立場は私もまったく共感できるところだった。

JICA特別アドバイザーとして

 2015年10月に私がJICA(国際協力機構)の理事長になってから、2016年に「JICAの中長期的なあり方に関する有識者懇談会」を作り、その委員になっていただいた。他の委員も超多忙なVIPばかりで、こういう会議では事前に十分な準備をし、ブリーフィングをしておくことが重要である。

 われわれは選り抜きの若手を各委員にはりつけた。岡本さんは彼らをとても気に入ってくれて、次に述べるアフリカ視察の準備にあたった若手とともに、何度もご自分のヨットに呼んでくれた。

 岡本さんは立命館大学でも教えておられたが、どんなに熱心に自分の授業に食いついてくる学生がいるか、目を輝かして語っておられた。

 そのうち岡本さんは、

「自分はサブ・サハラ(サハラ砂漠より南の地域)のアフリカにまだ行ったことがないので、行ってみたい」

 と言われた。それは当方も大歓迎なので、JICAの特別アドバイザーになっていただき、視察に行ってもらった。

 最初が2017年3月で、訪問先はウガンダ、ケニア、ルワンダだった。

 ウガンダでは、JICAが長年協力しているナカワの職業訓練校を訪れた。薄暗い部屋で、古い機械で一生懸命仕事を覚えようとしているウガンダの若者を見て、ああ、あんなに一生懸命学んだことがあっただろうか、と感動された。

 ルワンダでは、大虐殺から立ち上がっていく姿を奇跡だと感じられた。日本在住のルワンダ人が設立し、日本人が様々な形で支援している学校では、感動して、即座に5000ドルを寄付して頂いたのみならず、「あの学校のグラウンドを何とかしたい」と言われて、帰国後に志ある民間企業に交渉し、寄付を取り付けて下さった。

 整備されたグラウンドでは、日本式の運動会が開かれている。

 またどの国でも、そこで働く青年海外協力隊の諸君やJICAの職員のことも高く評価していただいた。日本が長年に亘って協力を続けるジョモ・ケニヤッタ農工大学については、現地の特質に根差した研究をしていることを高く評価され、「私の教えている立命館の学生を派遣したい」と即決して、先方から歓迎され、翌年に早速実現された。

 次に2018年4月には、ガーナとナイジェリアに行ってもらった。ガーナの親日性と対照的に、ナイジェリアでの仕事の難しさに驚かれたようだった。

 3度目は2019年10月に南アフリカ、モザンビーク、タンザニアと行っていただいた。中国との競争の中で、日本がいかに進むべきか、いろいろ思うところのあった視察だったようだ。

 これらの視察のたびに、ご帰国直後に報告にお越し頂き、また持ち前の影響力を行使して、予算折衝のときなど、JICAの応援団を買ってでて要路にインプットしてくださった。

4月の視察旅行が実現していれば

「今度はどこに行ってくれますか、昔行かれた中東はいかがですか」

 と尋ねると、

「ああ、行きたいなあ」

 と言われた。特に、奥大使と過去に訪問された思い入れの深いイラクのモスルの現状を見たい、とのことだった。しかし治安面に鑑みて、すぐに実現するのが難しそうなので、

「多くの無名の兵士が亡くなり、遺骨収集もまだ終わっていない太平洋島嶼国はいかがですか」

 と言うと、

「ああ、それがいい、それにしよう。ぜひ行きたい」

 と言われた。

 それで、ソロモン諸島とマーシャル諸島におけるJICAの事業を見てもらうことを計画した。ソロモンでは、ガダルカナルの悲劇のあとを見てもらうことにしていた。出発予定は今年の4月14日だった。17日頃には、かつて日本軍と米軍が争ったホニアラの飛行場や、一木支隊が全滅したあたりを視察しておられるはずだった。

 しかし、新型コロナのせいで延期になってしまった。岡本さんの罹患は4月中旬のことだったらしい。もし視察旅行が成立していたら、岡本さんの死はなかったのである。残念でならない。

 岡本さんはリアリストであって、現実的な安全保障能力の強化を常に提言しておられた。

 ただ、安全保障能力の向こうには生身の人間がいることを、決して忘れることはなかった。いつも体当たりで、誠意をもって臨めば、道は開けると思っておられるような気がする。その点で、本当のリアリストにはなりきれなかったというべきだろうか。あるいは、本当のリアリストはそういうものであるべきだろうか。

「日本のトラウマ」との戦い

 もう1度、1990年の湾岸危機の話に戻ろう。あの時の岡本さんの働きは凄かった。

 サダム・フセインのクウェート併合のような戦後も例のない暴挙に対し、世界中の国が結束して行動するとき、日本も何らかの役割を担うのは当然のことだった。戦闘行為への参加は難しかったとしても、それ以外の物資輸送、医療協力、機雷の掃海活動などは、すぐにもできたはずなのである(掃海は1991年に行われた)。

 そのうちのほんの一部を実現するために、岡本さんが英雄的な働きをしなければならなかったことの方が、実はおかしいのである。

 それは、あらゆる軍事行動を否定的に考える日本の行き過ぎた平和主義(空想的平和主義)の所産であって、自慢できる話ではない。岡本さんの獅子奮迅の働きなしに、楽々と実現できなければならない。そして岡本さんには、より自由に、より大きな課題に外交官としてチャレンジしてほしかった。

 沖縄の基地の問題でも、根本にあるのは、本土の消極性である。本土が、もう少し沖縄の負担を分担しようという態度であれば、これほどこじれることはなかっただろう。

 しかも、岡本さんの案(辺野古移設案)は、まだ実現されていない。ある時、

「今でもあの案でいいと思いますか」

 と尋ねると、

「あの時はベストの案だったんだが」

 と言っておられた。

 イラク復興支援の時も、もう少し日本の外交安全保障政策に柔軟性があれば、岡本さんもあれほど苦労しなくても、また奥大使、井ノ上正盛一等書記官も亡くならなくても済んだかもしれない。自衛隊によるサマーワにおける給水活動についても、コストなどに関して、岡本さんは批判的だった。

 湾岸危機の時、岡本さんたちの懸命の努力にもかかわらず、日本の貢献は世界で評価されなかった。それを、「外務省のトラウマ」と呼ぶメディアが今もある。

 だがこれは、「日本のトラウマ」なのである。これを晴らそう、極端に硬直した平和主義を何とかしようと、岡本さんは長年戦ってきた。湾岸を「外務省のトラウマ」と呼んで、他人事のようにいうメディアが岡本さんを褒めるのに、私は強い違和感を覚えるのである。

北岡伸一
東京大学名誉教授。1948年、奈良県生まれ。東京大学法学部、同大学院法学政治学研究科博士課程修了(法学博士)。立教大学教授、東京大学教授、国連代表部次席代表、国際大学学長等を経て、2015年より国際協力機構(JICA)理事長。著書に『清沢洌―日米関係への洞察』(サントリー学芸賞受賞)、『日米関係のリアリズム』(読売論壇賞受賞)、『自民党―政権党の38年』(吉野作造賞受賞)、『独立自尊―福沢諭吉の挑戦』、『国連の政治力学―日本はどこにいるのか』、『外交的思考』、『世界地図を読み直す】など。

Foresight 2020年6月1日掲載

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