【特別連載】引き裂かれた時を越えて――「二・二六事件」に殉じた兄よ(10)分かれ道の兄妹 引き裂かれた時を越えて――「二・二六事件」に殉じた兄よ
〈昭和六年、東北一帯はひどい冷害だった。夏、八月というのに、毎日毎日、冷たい雨がしぶいて、日のさした日といっては、ほんの二、三日しかなかった。
秋になって、田圃の色だけは、黄金色にかわったが、毎朝、田を回っては心配そうに、稲の穂をしごいて見る百姓の掌に、穂はさらさらと軽く、噛んでみると、むなしいしいなだけが舌に残った。〉
1897(明治30)年に青森市に生まれ、弾圧と闘った農民運動の活動家、戦後は社会党代議士として昭和を生きた淡谷悠蔵は、1931(昭和6)年の記憶を著書『野の記録』(春陽堂書店)にこうつづった。
ケカツ鳥の啼く年
青森の農民たちの間で「凶兆」と先祖から伝わったケカツ(飢渇)鳥(アカショウビン・カワセミ科)のヒョロローンという啼き声に、
〈「やっぱりな、このヤマセ(冷たい北北東の風をヤマセという)では、今年もケカツ(凶作)にきまったじゃ」
溜息が一座を流れると、その百姓はケカツ鳥が啼いた年の、凶作の経験を、あれこれと話し出し、みんなが、ガヤガヤとそれに和して、しばらく落ちつかなかった。〉
1930(昭和5)年の世界恐慌による農産品価格の下落、地主の過酷な小作料取り立てに東北の農村は窮迫の一途をたどった(本連載9回『満州事変前夜』=2020年4月25日=参照)。
翌年は、2月23日の青森市の最低気温が零下24.7度と、現在も破られていない記録的な寒さで始まったが、豊作を念じた農民を絶望の淵に追い込んだのが、ケカツ鳥が呼んだ冷涼な季節風ヤマセの夏だった。
同年7月の、東北6県の平均気温は18.8度。青森県でコメの収量が8割減となり、窮乏農家2万8210戸と記録された1913(大正2)年の大凶作当時の同19.7度をも下回った。
隣の岩手県では、7月24日の『岩手日報』が次のように報じた。
〈土用三郎になつてもお天気はまだぐらついて薄ら寒くなか/\浴衣などは着られさうもない
今年は何時夏が来るやら――殆ど見当がつかない、全く憂慮される天候であるが盛岡測候所もこれにはホト/\困り切ってゐる
(中略)昨今の日中平均温度は例年に比し三四度低く雨量も多く日照時は二割方少ない、それで稲作に必要な条件たる気温低く日照少なく雨量が多く稲作の発達を非常にさまたげてゐる
丁度今日までの状況は大正二年の凶作にほぼ似通つてゐるので実に憂慮されてゐる〉(注・土用三郎とは、土用の入りから3日目を指し、晴れなら豊作、雨なら凶作とされた)
それは、1934(昭和9)年まで続く未曽有の「東北大凶作」の始まりと記録されることになる。
たまさんの上京
連載の主人公、青森出身の対馬勝雄=1936(昭和11)年、二・二六事件の蹶起に加わり銃殺刑=はこのとき、22歳。陸軍歩兵第三十一連隊の少尉、連隊旗手として弘前にいた。
部下の教育と演習に明け暮れながら、農村の苦境と政党政治腐敗への憤り、前年のロンドン海軍軍縮会議への反発から、青年将校たちの「国家改造」運動にのめりこんだ(本連載9回参照)。
青森市相馬町の実家では、勝雄の妹である長女タケさんが、父嘉七さんの郷里田舎館村の地主の娘が嫁いだ先の女中として請われ、1927(昭和2)年5月に上京。この物語の語り部である次女のたまさん(昨年6月、104歳で弘前市で死去した波多江たまさん)も、後を追うように1930(昭和5)年春から東京で暮らし始めていた。
たまさんが戦後、遺族の手で編んだ本『邦刀遺文 二・二六事件 對馬勝雄記録集』(自費出版)のために書き起こした膨大な「記憶のノート」から、昭和5~6年という時代をたどってみる。
〈兄は(注・任官から間もない給料で)私達の面倒はみられませんでしたけれども、末の妹(きみ)だけでも自分で学校を出してやると云い出しました。之からは女でも学問はなくてはならないと云うのです。その後、妹は兄の仕送りで女学校に入りました。
私達姉妹は、苦労している母の姿を見て育ちました。この貧乏からのがれて、手に職をつけようと考え始めました。私は婦人服(の仕立て)を習う事にし、女の職業として将来有望だと考えたのです。母(なみ)は私の考えに賛成してくれましたが、父の頑強な反対でなかなか上京できず、一、二年が過ぎてしまいました。そこで東京にいる姉と連絡を取り、着々と準備して上京しました。昭和5年4月、17才の春でした。〉
たまさんが目指した洋裁は、モダンな都会生活スタイルが開花した大正デモクラシーの時代以降、事務職やタイピストなど、女性の社会進出を象徴する職業の1つだった。
しかし、男が妻子を養うのが当然で妾を持つのが「甲斐性」といわれた時代、女性の自立の萌芽である「職業婦人」には世間の風当たりが強く、蔑視さえされたという。田舎はなおさらだった。
対馬家では、小作農家の出で元軍人の嘉七さんが「女に学問はいらない」を口癖にし、たけさん、たまさんが尋常小学校を出ると貧しい魚加工の家業を手伝わせ、「女は家にいるべきだ。年頃になったら嫁にやるのが一番いい」を口癖にしていたが、母なみさんは正反対の考え方の女性で、娘たちを応援した。記憶のノートにはこんな記述がある。
〈母は開放的で時代を先取りするようなところがありました。従って、女といえども家にこもる事はなく、之からはどんどん世に出て手に職をつけて自立しなさい、とよく云われました。(嘉七さんと同郷の)裕福な家庭から、いきなり貧乏をいやというほど味あわされた母の経験から産み出た結論だったと思います〉
父と同じ軍人の道を選んだ勝雄には、国家改造運動に見える激しさの半面、母親譲りの柔らかな感性、貧しさに耐える妹たちへの温かな愛情が宿っていた(連載8回『昭和4年 運命の出会い』=2020年2月18日=参照)。
旧制青森中学を中退してまで自らの前途を変えた決意もまた、早く家族を楽にさせたいという思いからだった。守るべき者たちへの無私の優しさは、この先に待ち受ける戦場で勝雄自身を苦しめていく。
恐慌下の東京
たまさんは上京した1930(昭和5)年春、タケさんの身元引受人になっていた鷺宮の英語教師・安部金之助の世話で、新宿の洋裁学校に通った後、王子の洋裁店に住み込みで働いた。
同年秋に四谷の婦人服仕立て業の家に移り、翌31年春から3軒目になる目白の婦人服仕立て店に勤めた。もっとも、たまさんが初めて出合った東京は、大正のモボ・モガが闊歩した花の都ではなかった。
王子の洋裁店で、たまさんは奥さんから野原のハコベを摘まされ、何をするのかと思ったら、味噌汁の具とおひたしになって出てきた。店主の家には、近くの王子製紙の工場労働者が頻繁に出入りしていた。泊めたりもするので、縁側に寝させられたという。
〈製紙工場では「働く者に相應する報酬を与えよ」と訴えてストライキが絶えず、官憲に追われる労働者を、主人はよくかくまってやりました。身なりも汚く、田舎の労働者と殆ど同じでした。その頃は、働かざる者食うべからずと云われて、とても不景気な時代でした〉
折からの恐慌で、全国の失業者は1929年9月の27万人から1930年4月に37万人、1931年5月には40万人を超えたと内務省社会局「失業状況推定月報」は発表した。
だが『エコノミスト』誌(1930年7月15日号)は、「日本の失業者總數百二十万突破 恐るべき失業時代の到來」と独自試算の特集記事を出し、さらに200~300万人に上ったと推定する学者もいる。失業して浮浪者になった人々もおり、たまさんは東京の夜道での体験をつづった。
〈歩道を歩いていますと、歩道(の端)を枕にして寝ている労働者らしい人の頭を、あやうく踏みつけるところでした。(中略)屑拾いらしく箱のついた荷車があり、其の中に拾ってきた紙屑が沢山入っていました。おどろいたことに其の紙屑の中にも誰か寝ているらしく、がさがさと動いたのです。私は急に怖くなり駆け足で通りぬけました〉
〈今度は違う道を通りました。そしてガードの近くに来た時、異様な臭いに立ち止まりました。するとガードの下がぼうと明るく見え、火をたいている浮浪者らしい三人が鍋をかけて何か煮て食べているのです。臭いは其処からだったのです。私は気づかれないように夢中で横道を通って帰りました。東京にもかなり貧しい人々が多いと次第に判ってきました〉
貧困の蔓延する東京には、しかし、全く別の世界があることも四谷の仕事場で知った。
〈御主人の弟さんが遊びに来ていました。すごくハンサムで背が高く、黒の背広に紋入りの蝶ネクタイをし、私達針子によくおみやげを持って来てくれました。あまりにあかぬけているので、何の仕事をしているのかと思ったら、自動車の運転手だと云うのです。まさか、こんなハイカラな運転手などいるわけがないと云ったら、元天皇陛下の運転手をしていて今は○○家(華族)の運転手をしているというのです。本当におどろきました〉
〈そんな立派なお屋敷ではどんな暮らしをしているんだろうと云いましたら、「一ケ月に何回かパーティーがあって大広間の絨毯が片づけられ、ダンスが始まるので、とてもにぎやかできれいだ」と話してくれました。美しい夜会服を着て踊っている様子が浮かんできました。農村では食う為に娘を売っていると云うのに、之はどういうことなのかと溜息がでました。と同時に私は、自分の今の仕事に矛盾を感じ考えさせられました〉
兄と青年将校運動
四谷の店で働いていたある日の夕方、弘前の連隊にいるはずの兄勝雄がひょっこり訪ねてきた。驚いたことに軍服ではなく、当時はやった鳥打帽(ハンチング)に二重マント(インバネスコート)という姿。誰がどう見ても、軍人とは思えなかった。
その刹那の勝雄の肉声を、たまさんは「記憶のノート」に残している。
〈この時兄は、仕事が辛くないか、困っていることはないかと聞くので、私は大丈夫、心配しないで、と云いました。兄は、それなら安心だ、一日も早く仕事を覚えて自立しなさい、其の時は必ずミシンを買ってやるし援助もするから、辛いだろうががんばりなさい、体に十分気をつけなさい、と云って二十分くらいで帰っていきました。其の頃ミシンは非常に高価で、普通のサラリーマンには買えませんでした。私は将来が楽しみでした〉
ただ、後で店の人たちからは、
「たまちゃんの兄さんは将校と聞いていたが、本当なのか」
と疑わしそうに言われた。その唐突さ、奇妙さが腑に落ちたのは、二・二六事件が起きてからだ。たまさんはこう記した。
〈いまになって考えますと、革新将校の集まりがあって弘前から上京したのではなかったかと思います〉
〈それで憲兵の目を逃れたのでしょう。思い返してみますと、昭和5年以前から仲間を集めたのも判りました。村中さん(孝次大尉・二・二六事件の首謀者として銃殺刑)等も。(中略)当時は全く気がつきませんでした。兄が要注意軍人の1人だった事等本当に驚きました〉
勝雄は陸軍士官学校にいた1929(昭和4)年1月、仙台陸軍教導学校の教官だった大岸頼好中尉を初めて訪ね、国家改造運動を志す青年将校の精神的支柱と目された大岸に心酔する(本連載8回参照)。
農民と皇軍兵が天皇の下で平等一体となる国家改造の闘争を求め、雑誌『日本』に檄文を発表していた大岸は、翌1930(昭和5)年4月、『兵火』というパンフレットを発行して同志たちに配った。民政党の浜口雄幸内閣がロンドン海軍軍縮条約を締結し、これを海軍軍令部や野党政友会、国家主義者、在郷軍人らがこぞって「統帥権干犯」と攻撃する矢先だった=以下、引用は『現代史資料23』(みすず書房)より=。
〈百姓の起す火を“ポロン火”と云ひ、兵隊の起す火を“兵火”と云ふ。同じ火にかはりは無い。“ポロン火”が燃え出す“兵火”が燃え出す〉
これは、民衆と軍が1つになった蜂起を呼び掛ける烽火を意味し、海軍の「盟友」に連帯しての国家改造の革命戦を呼び掛けたものだ。
〈此の問題が革命作業の過程として政党財閥亡国的支配階級、指導階級の撃滅への方向に役立つ限り我等陸海の盟友は海軍々令部を支持すべきである〉
〈農民労働者…在郷軍人を第一戦に軍隊を基本隊に戦闘的統一を要す〉
〈東京鎮圧し宮城を護り天皇を奉戴するを根本となす。この故に陸海国民軍の三位一体的武力を必要とす〉
ほぼ同時に、海軍の急進派将校のリーダーだった藤井斉中尉が『憂国慨言』という印刷物を頒布し、
〈我等は外敵の侮辱に刃を磨くと同様にこの内的――然り天皇の大権を汚し、民衆の生命を賊する貴族、政党者流及財閥――の国家滅滅の行動に対して手を空しうして座視するの惨酷無責任を敢てすべきではない。〉
と異口同音の激しい叫びを響かせた。
急速に接近した陸海軍の青年将校、民間や農村の国家主義活動家の大同団結を目指す集会が1931(昭和6)年8月26日、東京・日本青年会館で開かれた。「郷詩会」という。そこに弘前から遠路、勝雄も参加していた。
蹶起に焦がれ
勝雄の日記(『邦刀遺文』所収)には、同年7月23~27日に「東行」と称して盛岡、山形、秋田の各連隊を巡り、目ぼしい将校たちを「革新派」へ誘う工作をしたこと、それが東京の同志たちと呼応した活動だったことが記されている(本連載9回参照)。だが、それ以降「郷詩会」など青年将校との交流に関する記述はない。
当時、教導学校から第五連隊(青森市)に移った大岸と同じ連隊の同志で、勝雄とも親しかった末松太平中尉(二・二六事件で禁固4年、免官)が戦後、青年将校たちの素顔、事件までの行動を克明に記した著書『私の昭和史』(みすず書房)に、郷詩会のくだりがある。
それによると、「蹶起」の具体的行動へ密議を期待した藤井ら海軍側に対し、後の二・二六事件の中心人物たちがそろった陸軍の側は「組織固めでよい」という認識で、雑然とした顔合わせの会合に終わったという(これを不満とした海軍側の参加者らは翌年、五・一五事件を起こす)。
〈もちろん陸軍にも、海軍に劣らぬ急進分子がいるにはいた。このとき大岸中尉と同行した弘前の三十一連隊の対馬勝雄少尉などがそれで、対馬はこの会合を赤穂浪士の討入り前の会合のように思って上京していた。
「このまま弘前に帰れというのですか」と目を据えていって、眼鏡ごしに私を見つめもした〉(『私の昭和史』より)
〈しかしこんど集まったものすべてを同志とみるのは早計だしね…〉
と、郷詩会で醒めた感想を漏らしたという戦略家の大岸に比べると、勝雄にはいかにも東北人の一途な、思い詰めるような生真面目さがあった。
『私の昭和史』にはまた、同年10月17日、陸軍の急進派組織「桜会」を率いる橋本欣五郎中佐らが一斉検挙された、政党内閣打倒のクーデター未遂事件「十月事件」の際も、蹶起に加わろうと上京した勝雄の姿が刻まれている。
〈大岸中尉が(青森に)帰ると一足違いで、これも和服に軍刀の対馬少尉と菅原軍曹が下宿に現れた。対馬少尉は仮病を使って(弘前の)留守部隊に残っていたが、抜け出して、秋田の演習地から菅原軍曹を誘い出し、相たずさえて上京したのだった。〉(注・菅原軍曹は大岸中尉から仙台教導学校で薫陶を受けた教え子)
1931年9月18日夜、海を越えた満州・柳条湖で満州鉄道の線路が爆破された。 蹶起に焦がれたような勝雄は、さらなる歴史の大状況に呑みこまれる。
〈十八日夜一〇時半ごろ、奉天北方、北大営側において、暴戻なるシナ軍は満鉄線を破壊し、わが守備隊を襲い、駈けつけたるわが守備隊の一部と衝突せり。報告により、奉天独立守備第二大隊は現地に向い出動中なり〉
陸軍中央部への第1報とともに始まり、燎原の火のように拡大した満州事変だ。
満州への出征
たまさんの「記憶のノート」には、東京での洋裁修業の日々を突然、断ち切るように「兄の出征を見送る」という長い一節が出てくる。
この年の暮れが近い11月14日、青森の父嘉七さんから電報で、勝雄の満洲出征と、第三十一連隊など混成第四旅団の列車が15日朝9時45分、品川の駅を通過する、と知らされた。
〈やっと兄の乗っている列車の前に行く事が出来ました。兄は元気いっぱいでしたが、友人や知人に囲まれて近づくことが出来ませんでした。すると其処に南(次郎)陸相が来たとかで、兄達将校はホームの控え室に入ってしまいました。私達ははらはらしました。もう発車十分前です。すると将校達は控え室から、あわてて次々と汽車に乗りました。私達は近くの将校さんに案内していただき、やっと兄と言葉を交わすことが出来ました〉
〈兄は、「生きて帰ると思うな、後を頼む」と云いました。安部(金之助)先生は「命を粗末にしないで、元気で」と云いました。別れの言葉の終わらないうちに、汽車はながい汽笛を鳴らして、がたんと動き出しました。涙は不吉だとこらえました。万才万才とホームの人々の旗は右に左にゆれました。車中の兵士達は一斉に立ち上がり、整然として挙手の礼をしました。〉
人がこぼれ落ちるほど騒々しいホームを、兵の声1つ残さず離れる列車。自分が暮らす場所とは違う世界に勝雄が旅立っていくことを、たまさんは感じた。(つづく)