テラハ「木村花」さん死去、リアルとリアリティショーの境目と女優たちの被害の履歴書

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悪役俳優への中傷は日常茶飯事

 プロレス団体「スターダム」所属の女子プロレスラー、木村花選手が、5月23日に亡くなった。享年22。死因は明かされていないが、本業のプロレスと並行して、フジテレビの人気リアリティーショー『テラスハウス』の最新シリーズ「TOKYO 2019-2020」に出演していた彼女は、以前からSNS上で誹謗中傷に悩まされていたという。罵詈雑言が1日100通以上も、ダイレクトに送られる精神的負担を思えば、心中は察して余りある。

 しかし、驚いたのは「リアリティーショー」というエンターテインメントを、「リアル」と信じて疑わない人が、令和のこの時代においても、一定数は存在する事実だろう。
「リアリティーショー」とは、そもそも、台本も演出もない前提でカメラを回し、日常生活における人間同士のやりとりを、ドキュメンタリー的手法で公開するものを指す。

 しかし、実際のドキュメンタリーとの線引きは、曖昧なまま長らく放置されてきた。むしろ、この手の番組の実情を、テレビ局も制作会社も、率先して詳らかにしてこなかった。視聴者の関心を惹きやすく、数字に直結するからなのは言うまでもない。知らないままでいてくれた方が好都合ということだ。

 つまり、リアリティーショーをリアルと信じ込む視聴者を量産したのは、他ならぬ、作り手側だったことになる。

 ここで、筆者の脳裏をよぎったのは、昭和の時代のテレビドラマについてである。

 悪役を演じた俳優への中傷行為が日常茶飯事だったのは、よく知られた話で、例えば、人気ドラマ『赤い運命』(76年)でヒロインの山口百恵に、冷たい仕打ちを繰り返す敵役を演じた秋野暢子は、街中で罵声を浴びせられた挙句に、近所の商店街での買い物さえ拒まれた。「あんたみたいな、人でなしに売るものはない」というわけだ。

 国民的ドラマ『おしん』(83年)で、ヒロイン田中裕子をいびり続けた姑役の高森和子は、自宅に不幸の手紙が大量に届き、日がな、「おしんをいじめるな」という脅迫電話が相次いだ。翌年の大河ドラマ『山河燃ゆ』(84年)に、彼女が心優しい初老の婦人役でキャスティングされたのは、NHKの配慮によると囁かれたものである。

 この他にも、『スチュワーデス物語』(83年)で、ヒロイン堀ちえみの恋仇として登場した片平なぎさや、平成に入ってからも『東京ラブストーリー』(91年)において、「煮え切らない女ナンバーワン」と呼ばれた「さとみ役」の有森也実が、同様の被害に遭っている。

 ここに列挙したのが、すべて女優ばかりなのも、問題の一端に触れている気がしないでもないのだが、当然、思い悩んだはずの彼女たちに対し、「いやいや、役者としていい仕事をしたんだ」と称賛する関係者も、この時代、必ずしも少なくなかった。

「昭和のプロレス」の悪役レスラーは

「演技論」という見地に立てば、ある意味においては正論かもしれない。しかし、女優の人権より、世間の関心と視聴者の反応を重視する、異常な価値観が横溢していたことは間違いないのだろう。

 創作物として明白なテレビドラマですら、そうなのだから、リアリティーショーの嚆矢とも呼ぶべき、「昭和のプロレス」においては、その傾向はさらに顕著となる。特に、ファンの憎悪を買う悪役レスラーは、会場で野次や罵声を浴びせられたり、物をぶつけられたりするのは、いずれも職分の範疇としても、彼らは私生活においても深刻な「ファン被害」に遭い続けた。

 日本人初の本格的悪役レスラーとして、悪の限りを尽くした上田馬之助。彼の自宅には、不幸の手紙や無言電話はもとより、脅迫状に脅迫電話、真夜中の投石と、れっきとした犯罪行為が繰り返された。

 にも関わらず、警察は動かず、それどころか、「悪事ばかり働けば、そうなるのは自明のこと」と説教を始めたという。結局、上田馬之助は家族にまで及ぶ危険を座視できず、日本に見切りをつけ、一家でアメリカに移住している。

「これらが女房や実家のオフクロたちを追い込んでいた」と、上田自身は後年、自伝で明かしている。

 団体崩壊後、新日本プロレスに参戦し、アントニオ猪木の敵役としてファンの憎悪を一身に負ったラッシャー木村に至っては、別の悲劇が待っていた。繰り返される自宅への投石に、飼育していた犬がノイローゼの末に、死んでしまったのである。愛犬家の木村だが、「現役中は絶対にペットを飼わない」とかたく誓った。

 社会現象とも言うべき人気を誇った女子プロレスラー、クラッシュギャルズ(ライオネス飛鳥&長与千種)の敵役として、悪役人気も得たダンプ松本の場合は、地方巡業や多忙なスケジュールでほとんど自宅にいない本人以上に、実家の両親への嫌がらせが相次いだ。

 これらの蛮行が、往年のエピソードとして語られることはあれど、犯罪として告発されるどころか、「プライバシー保護」の観点から検証されることも、まったくなかった。

 むしろ、一種の成功譚としてあげつらわれ、被害に遭ったレスラーへの配慮は、「有名税」として処理されたにすぎない。折角、燃え広がった炎を消すより、燃やしきった方が得策だと、周囲の関係者は考えたふしがある。

 決して忘れてならないのは、2020年5月23日に起きた悲劇は、これら、「昭和の寓話的徒花」の延長線上にあることだ。亡くなったのがプロレスラーというのは、皮肉というしかないが、もはや、それだけでは済まされない。このままだと第2、第3の被害者を招来することになりかねないのである。

『女王の教室』のエンディング

 最後に、15年前の、あるドラマにまつわる挿話を紹介しておきたい。

 小学校教師役の天海祐希が、自身が担任を受け持つクラスの児童に対し、無理難題どころか、時にパワハラと受け取られかねない行為を繰り返し、エスカレートする展開から、大ヒットしたドラマ『女王の教室』(05年)。問題作だけに記憶している読者も多いことだろう。

 筆者も、毎週夢中になって視聴していたものだが、唯一、引っ掛かる点があった。

 ドラマのエンディングにおいて、主演の天海祐希が、宝塚時代に体得したであろう洗練されたダンスを、エンドロールが流れる横で、満面の笑みとともに踊って、そのまま終了することである。

 筆者はこれに不満だった。作品の世界観が壊されているとさえ思った。天海祐希には、「女王」のイメージのまま、一時間の番組終了まで走り切ってほしかった。

 あるとき、日本テレビに勤務する知人に、そのことをぶつけた。彼は「ああ、そのことか」と苦笑すると、「同期のドラマ(班)のやつから聞いたんだけど」と断った上で、筆者に次のように明かした。

「あれは視聴者に『いいですか、これはフィクションですよ。創作ですよ。ドラマなんですからね。判ってますか』と認識させるため、とりあえず、目を覚ましてもらうためにやっているらしい。世界観が壊れようとなんだろうと、そうでもしないと、取り返しのつかないことが起こらないとも限らないからって」

 リアリティーショーが、この先も生産され続けることになるかどうか、その件についてはここでは問わない。問わないが、上記のような配慮がまったくなされず、前途有為な少女が命を絶ったことだけは、返す返すも「取り返しのつかないこと」だったと言うほかない。

細田昌志
著述業。鳥取県出身。CS放送「サムライTV」でキャスターをつとめたのち、放送作家に転身。 その後、雑誌、WEB等に寄稿。著書に『坂本龍馬はいなかった』(彩図社) 『ミュージシャンはなぜ糟糠の妻を捨てるのか』(イースト新書)がある。 現在、メールマガジン「水道橋博士のメルマ旬報」にて「プロモーター・野口修評伝」連載中。

週刊新潮WEB取材班編集

2020年5月27日掲載

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