早大野球部が戦争中に初の米国遠征 大隈重信が反対論を押し切って許可した理由

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にっぽん野球事始――清水一利(14)

 現在、野球は日本でもっとも人気があり、もっとも盛んに行われているスポーツだ。上はプロ野球から下は小学生の草野球まで、さらには女子野球もあり、まさに老若男女、誰からも愛されているスポーツとなっている。それが野球である。21世紀のいま、野球こそが相撲や柔道に代わる日本の国技となったといっても決して過言ではないだろう。そんな野球は、いつどのようにして日本に伝わり、どんな道をたどっていまに至る進化を遂げてきたのだろうか? この連載では、明治以来からの“野球の進化”の歩みを紐解きながら、話を進めていく。今回は第14回目だ。

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「日本野球の父」として安部磯雄が野球界に残した数ある功績の中でも忘れてはならないことは、早稲田大学野球部が日本の野球チーム、というよりも日本のスポーツチームで初めての海外遠征であるアメリカ遠征を実現したことだろう。

 地球レベルで交通網が発達した現代とは異なり、海外へ行くこと自体がたやすいことではなかった明治という時代に、しかも、チームを率いて海を渡るというのは現在では想像もできない大変なこと。まさに快挙であった。

 早稲田大学野球部が横浜からサンフランシスコに向けて遠征に出発したのは1905(明治38)年4月4日のことだった。主将の橋戸信以下13人のメンバーは、4月29日のスタンフォード大学戦を皮切りにアメリカ西海岸を転戦し、約3カ月間に26試合を戦い7勝19敗の成績で帰国したが、何といっても、ここで注目しなければならないのは1905(明治38)年4月という、その遠征時期だ。

 前年の1904(明治37)年2月から日本はロシアとの戦争状態、いわゆる日露戦争の真っただ中にあった。当時はまだ東アジアの小国にすぎなかった日本が、大国ロシアを相手に無謀といってもいい戦いを挑んでいたのである。そんな国の一大事の時に学生の野球チームがどうして海外遠征ができたのだろうか?

 安部は同志社英学校を卒業後ドイツに留学、その時、一時イギリスに滞在したことがある。そこでイギリスのオックスフォード大学とアメリカのイエール大学が陸上競技を通じて交流していることを知り、これからの日本の若者にも国際交流が必要だと強く感じていたのだ。

 日本に帰国後、その機会をうかがっていた安部は早稲田の野球部員たちに、「一高や慶應、学習院などの強豪チームに勝ったら諸君たちをアメリカに連れていくことを約束する」といっていた。

 早稲田の選手たちは当初こそ半信半疑だったが、試合を重ねるうちに次第にその気になり、結局それら強豪チームにすべて勝ってしまった。1904(明治37)年のことである。

 約束を守るべく安部は奔走する。

 しかし、何といっても国難の時である。当然のことながら安部からその提案を受けた大学理事会は、「いま国を挙げて大事な戦争中である。そんな時に海外へ行くとはどういうことだ。自粛すべきだ」といって、反対の意向を示す。

 当時の状況からすれば、そうした見解が出されるのは当然だろう。遠征の実現は難しいかに思えた。

 ところが、安部の熱意に大隈重信はゴーサインを出した。

「戦争はその任に当たる軍人たちがやればいい。学生には学生のなすべき道がある。これからの若者は外国に行って、大いに見聞を広めるべきである。どんな困難があったとしてもやりなさい。もし、政府から何かいってきたら、その時は吾輩が掛け合おう」

 大隈はそういって早稲田野球部のアメリカ遠征を許可したのである。これぞ、まさに英断というべきだろう。

 この早稲田の第1回アメリカ遠征には1つの後日談がある。

 アメリカ遠征に際して大隈は臨時の理事会を開き、急遽5500円(現在の貨幣価値で約7000万円)もの臨時予算を組んだ。この臨時会の時、同席していた安部は当時のアメリカでは1試合に2~3万人もの観客が集まることを前提に、自分たち早稲田の試合にもそのくらいの数の観客がやって来ると想定、そこから入場料収入を算出して、かなりの額の利益が出ると「大風呂敷」を広げてしまったのだ。

 しかし、東洋の小国の、それも大学生の試合である。誰が考えてみてもそんな何万人もの観客が集まるはずがない。当然のことながら利益が出るところか、逆に大きな赤字となり、後々までかなりの額の負債が残ったという。さすがの「日本野球の父」安部も商売は不得手だったかもしれない。

 一方、野球に関して理解を示した大隈は、野球に欠かせないあることにいまもその名を残している。

 それは、記録に残っている最古の始球式が大隈によって行われているということだ。1908(明治41)年11月22日、アメリカの大リーグ選抜チームと早稲田大学野球部が試合を行った際、羽織姿で始球式のマウンドに登った当時70歳の大隈の投球は、ストライクゾーンから大きく逸れてしまった。

 しかし、大隈は早稲田大学の創設者であり、総長、政治家でもある大先生だ。その投球をボール球にしてはいけないと機転を利かせたのか、早稲田大学の1番打者は、この大きく逸れたボールをわざと空振りをしてストライクにした。これ以降、打者は始球式の相手に敬意を表すため投球がボール球でも絶好球でも空振りをすることが慣例となった。

 この日本式の始球式はその後アジアの国々だけでなく、本場アメリカでもこの方式で実施するケースが出てきている。

清水一利(しみず・かずとし)
1955年生まれ。フリーライター。PR会社勤務を経て、編集プロダクションを主宰。著書に「『東北のハワイ』は、なぜV字回復したのか スパリゾートハワイアンズの奇跡」(集英社新書)「SOS!500人を救え!~3.11石巻市立病院の5日間」(三一書房)など。

週刊新潮WEB取材班編集

2020年5月16日掲載

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