毒々しい母には虚弱な息子?――持統天皇と草壁皇子
子供の人生を奪い、ダメにする「毒親」。近年、盛んに使われだした言葉だが、もちろん急に親が「毒化」したわけではない。古代から日本史をたどっていくと、実はあっちもこっちも「毒親」だらけ――『女系図でみる日本争乱史』で、日本の主な争乱がみ~んな身内の争いだったと喝破した大塚ひかり氏による連載第4回。スケールのでっかい「毒親」と、それに負けない「毒子」も登場。日本史の見方が一変する?!
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前回、急激な階級移動は大きなストレスとなり、そのストレスから生じた不安が差別や非行につながること、また、そうした人が親になると、「自分の欲求達成の手段として子供を利用するように」なり、子供が選択肢を奪われ、家族殺人の可能性が高まるというエリオット・レイトンの『親を殺した子供たち』(木村博江訳)の話を紹介しました。
中国の武則天(則天武后)は、多くの親族を殺したことで有名ですが、実は彼女の母の楊氏は落ちぶれ皇族、父の武氏は成り上がり農民だったことも。
この武則天が即位した690年、日本でもひとりの女帝が誕生していました。
天智天皇(626~672)の皇女で、大海人皇子(?~686。のちの天武天皇)の妻だったう(へんが盧でつくりが鳥)野讃良皇女<うののさららのひめみこ>(645~703)こと、持統天皇です。
この持統がまた毒親……と言うにはスケールの大きな毒女でした。
夫の大海人皇子を助け、異母弟の大友皇子(648~672。※1)率いる近江朝廷を倒した(672年、壬申の乱)彼女は、夫が死ぬとただちに継子の大津皇子(663~686)を謀叛の罪で死に追いやります。
大友も大津も現存する日本最古の漢詩集『懐風藻』(751年)に風采・度量共に並外れるとされる偉丈夫です。しかも大津の母は持統の亡き同母姉。もしも姉が生きていれば皇后になったのは姉だし、皇太子になったのは大津です。夫を天皇の地位につけ、腹を痛めた草壁皇子(662~689)につなぎたい持統にとっては邪魔者です。大津の謀叛も彼女の仕掛けたわなであるという説や(※2)、最近では、壬申の乱の首謀者も彼女だったという説もあります(※3)。
それもこれも一人息子の草壁を皇位につけたい一心からで、即位年齢が30代から40代であった当時、天武死後の政務は25歳の皇太子・草壁でなく、42歳の持統が皇后として称制(天皇の政務を代行)しました。その間、天皇は不在。大津の謀叛と死はその時の出来事だったわけです。
ところが、そうまでして皇統を継がせたかった草壁は、彼女の意に反し、28歳で死んでしまうのです。686年に夫を亡くしてわずか3年後のことです。
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