焼身自殺濃厚の練馬「とんかつ店主」 苦学で慶応、日大大学院を卒業したインテリの素顔

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5月1日から店を再開

 高山さんは、02年3月から07年12月まで、電子マガジンで「東武練馬まるとし物語」を執筆している。以下はその引用である。

《「東武練馬まるとし物語 第一部」 その一「世代交代」(2002.3.1発行)

 東京都練馬区に、30年続いている「まるとし」というとんかつ屋がある。僕はここで今働いている。おやじさんは、僕の妻のお父さんであり、僕の師匠である。

 僕の店「まるとし」は、客数17の店である。東武東上線「東武練馬駅」南口から歩いて数分、商店街の表通りに店はある。

(中略)今までのおやじさんの経営方針は、職人肌の勘と経験を頼りにしたものである。昨今の牛丼やハンバーガー屋を意識して、限定で安売りをするアイディアを出し、それなりに努力した。ただ、お客様に来店していただかなければ、その効果も限度があった。

 僕は、(編注:日本大学大学院に)入学後、研究科での小松憲治先生のご指導のゼミで、経済の基礎からもう一度学ぶことができた。今までの独学で得ていた知識が次第にまとまり始め、かなりマクロ的な世界や日本の経済の流れをつかむことができた。その都度、おやじさんにもその話をするように努めた。

 また、僕の企業研究の成果として、過去の成功体験を捨て、今の流れの速い時代を乗り切るには、「売上げ拡大志向から利益重視への経営の変革」はその規模は問わず、僕の店にも有効であると考えていた。それをおやじさんに話すが、過去の成功体験にしばられていたので、なかなか理解してもらえなかった。》

 大学で経済を学んだ“インテリとんかつ屋”らしい文章である。

「20年ほど前、『まるとし』は同じ練馬区北町の別の場所で営業していたのですが、もらい火事で店が焼けてしまって、現在の場所に移ってきたのです」

 と語るのは、練馬区で飲食店を営む70代の男性である。

 まさか、20年前にも火事に見舞われていたとは……。

「18年前、高山さんに代が変わった時、先代のおやじさんとはうまくいってなかったようですね。というのは、高山さんは、箸や酒類、油など、少しでも安く仕入れるために、古くから付き合いのあった仕入れ業者を切ってしまったのです。そんなことされては、おやじさんだって面白くないはずでしょう。それにおやじさんは、朝早くから店に入って、きちんと仕込みをしていました。ところが高山さんは、朝早くに店に入るなんてことはしなかったですね。その辺でも、先代とは考え方が違ったようです」(同)

「まるとし物語」でも、自分の経営方針はおやじさんに「なかなか理解してもらえなかった」と告白している。大学で学んだことをとんかつ屋に応用することはそう簡単ではなかったようだ。

「高山さんからある時、大学院のレポートを見せられたことがあります。西友を買収したアメリカのウォールマートというスーパーのバックヤードについて研究したレポートでした。正直言って、これととんかつ屋の経営がどういう関係があるのかと思いましたけどね。彼は学歴など、肩書きを重んじるところがあって、商店街の役員を務めたことも自慢していました。ですから、聖火ランナーに選ばれた時も、店のホームページにも大きく掲載していました」(同)

 自殺を図るような心当たりは?

「やはり原因は、金銭的なことではないか。先代はパートも雇って、ちゃんと店を切り盛りしていました。しかし高山さんに代が変わってからは、経営が上手くいってなかったようです。最初、高山さんご夫婦は賃貸マンションに住んでいましたが、高山さんが店を継いで1年程で、練馬区にある奥さんの実家で同居するようになったのです。経済的に苦しくなって実家に行ったと言われています。婿養子みたいなものです。居心地は悪かったと思いますよ」(同)

 とんかつ屋は貸し店舗で、家賃は14~15万円という。

「この近所では知られた店ですからね。1年くらい休業しても何とかなると思うんですけどね。とにかく、なんかおかしいなと思ったのは、高山さんが亡くなる少し前、彼がずっと店にいたことです。彼は毎日、奥さんの実家からスクーターで店に通っていたのですが、そのスクーターがずっと店に置きっぱなしなんです。どうやら店に寝泊まりしていたようです。奥さんも店に出ていなくて、彼が一人で店を切り盛りしていました」(同)

 別の飲食店の店主もこう言う。

「高山さんは、Facebookではいつも理路整然とした文章を書くのに、亡くなる少し前は支離滅裂な文章を書いていて、挙げ句の果てに閉鎖されました。LINE仲間も沢山いましたが、亡くなる直前に退会していました」

 高山さんと親しい居酒屋店主によると、

「亡くなる3日前の27日の夜9時頃、私の店に高山さんが見えました。北町商店街ではゴールデンウィーク明けに消毒用アルコールを配布することになっていました。彼は『5月1日から店を再開したいので、遅くとも30日までにもらえないだろうか』と言うんです。その時、『商売が大変だあ、どうなるのか悩んでいる』とも言っていました。すごく暗い顔をしていましたね」

 居酒屋の店主は商店街に掛け合い、アルコールを入手。30日に高山さんの店に持って行ったという。

「午後3時過ぎでした。店は臨時休業しているので裏から入ると、高山さんと奥さんがいました。アルコールを渡したところ、彼は『商売を辞めます』ときっぱりと言うのです。びっくりしましたね。彼は商店街の副理事長を務め、地域の班長もやっていて、彼は『商売を辞めるにあたって、班長も誰かに代わってほしい』と言うのです。私は、『わかりました』とだけ答えました。まさかその日の夜に、あんなことが起こるとは夢にも思いませんでした」

 高山さんは、非常に真面目な性格の人物だったという。

「酒もギャンブルもしない。仕事が生きがいみたいな人で、勉強家でした。マラソンも好きで、聖火ランナーとして走るのが延期になった時、すごいショックを受けたようでした。それで歯車が狂ってしまったのでしょうか。細々とでも店を続けていけば、応援してくれる人が出てきます。国や都から補助金もあるでしょうし、なぜこんなに死に急いだのか分かりませんね」

週刊新潮WEB取材班

2020年5月12日掲載

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