金正恩「異変説」は「インフォデミック」という「原因」と「教訓」(上)

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 朝鮮労働党機関誌『労働新聞』は5月2日、1面と2面で、金正恩(キム・ジョンウン)朝鮮労働党委員長がメーデーの5月1日に、平安南道順川の「順川リン酸肥料工場」完工式に出席した、と21枚の写真とともに報じた。

 この直前まで「重篤説」「死亡説」などが出ていたが、4月11日に党中央委員会政治局会議に出席して以来、20日ぶりに健在を示した。

 この間メディアでは様々な「異変説」が伝えられたが、これが打ち消されたかたちだ。

 韓国の金錬鉄(キム・ヨンチョル)統一相は4月28日に国会の外交統一委員会に出席し、内外のメディアが金党委員長の異変説を報道し続けていることに対して「インフォデミック現象」と皮肉った。「インフォメーション」(情報)と「エピデミック」(流行病)を合成した造語で、「インフォデミック(偽りの情報流行病)現象」という主張だった。

 今回の「金正恩異変説」からわれわれが汲み取れる教訓とは何なのか、考えてみたい。

「異変説」の出た経緯

 金党委員長の動静が不明となった4月12日、最高人民会議第14期第3回会議が開かれたが、これに出席しなかった。

 もっとも金党委員長は最高人民会議の代議員ではないため、出席しないことは異常ではない。2019年4月の第14期第1回会議では1日目には出席せず、国務委員長に再選出された後の2日目に出席して施政演説を行った。2019年8月の第14期第2回会議にはまったく出席しなかった。

 金党委員長が権力を継承した2011年末から昨年末までに最高人民会議は11回開催されたが、出席したのは7回。要するに、金党委員長が重要だと考えれば出るし、重要ではないと考えれば出ないということだ。

 そういう中で、故金日成(キム・イルソン)主席の誕生日である4月15日を迎えた。

『労働新聞』はこの日、党、政府、武力機関の幹部が錦繍山太陽宮殿を訪問したと翌日報じたが、そこに金党委員長の姿はなかった。あったのは金正恩氏名義の花輪だけだった。

 金党委員長が4月15日に錦繍山太陽宮殿を訪問しないのは、2012年以来初めてであった。これは「異変」と言えば「異変」であった。

 考えられる理由として、第1には「新型コロナウイルス」感染を避けるために出席しなかったという推論があった。

 しかし、4月11日には約30人が参加した党政治局会議に出席しており、感染を恐れて参加しなかったというのもあまり説得力がなかった。

 第2は執権8年以上が過ぎて、「金日成・金正日(キム・ジョンイル)離れ」をして「独り立ち」をしようとする意図ではないかという見方も出た。

 だが北朝鮮メディアは4月10日に、金党委員長が軍団別の迫撃砲兵区分隊の砲撃訓練を指導した、と報じた。この時の写真が『労働新聞』などに掲載されたが、注目を引いたのはベージュ色のハンチング帽を被っていたことだった。これは、かつて金日成主席が被っていた帽子と似ており、金日成ファッションを真似たと思われた。こういう演出を見ていると、「金日成・金正日離れ」という解釈は弱いように見られた。

 金党委員長がなぜ金日成主席の誕生日に錦繍山太陽宮殿を訪問しなかったのか、未だに解けない疑問である。

 一方、錦繍山太陽宮殿を訪問した幹部の写真などを見ると、これには妹の金与正(キム・ヨジョン)党第1副部長と、金正恩氏の公開活動に最も多く同行している趙甬元(チョ・ヨンウォン)党第1副部長の姿がなかった。写真は、金党委員長がこの2人の最側近を連れて、どこかへ行った可能性を示唆した。

 このころ、韓国の著名な北朝鮮専門家が、金党委員長が錦繍山太陽宮殿を訪問しなかったのは異常と指摘した。

 北朝鮮は4月14日に江原道文川付近で巡航ミサイルとみられる発射実験をしたが、北朝鮮メディアはこれを一切報じなかった。専門家は、この発射実験で何らかの事故が起き、そのために金党委員長は平壌の錦繍山太陽宮殿を訪問できなかったのではないか、という分析を示した。

 だが、この発射実験を主管しているとみられる李炳哲(リ・ビョンチョル)党軍需工業部長が錦繍山太陽宮殿を訪問していることから、それほど大きな事故ではなかったとみられるとした。

『デイリーNK』は「施術で好転」と報道

 金党委員長の「異変説」には、火だねとなった2つの報道があった。

 第1は4月20日の韓国の北朝鮮専門サイト『デイリーNK』の報道で、第2は同日(日本時間同21日)の米『CNN』の報道だ。2つの報道とも金党委員長の健康に関する報道だが、かなり異なる。

『デイリーNK』は4月20日午後、北朝鮮内部の消息筋の話として、金党委員長が4月12日に平安北道妙香山地区にある金ファミリー一家の専用病院である香山診療所で心血管施術を受け、近くの香山特閣(別荘)に滞在し、治療を受けているとした。

 この施術には平壌の金萬有病院の担当外科医が直接執刀し、金萬有病院だけでなく、朝鮮赤十字総合病院や平壌医科大学病院所属の「1号」(金党委員長)担当医師たちも平壌から香山診療所へ呼ばれた、とした。施術で状態が好転したと判断し、大部分の医師は平壌へ帰り、一部の医師だけが残って金党委員長の回復状況を見守っている、と報じたのである。

 この報道を、日本語に翻訳する際に「手術」としていたが、原文は、「手術」よりは一段階軽い外科的な措置である「施術」という言葉を使っている。ここでは、この施術で状態は好転したとしている。後に韓国政府は、香山診療所は手術をするような施設が整った医療機関ではないと指摘した。

『CNN』は「手術後、重篤」と報道

 一方、『CNN』は4月20日(日本時間同21日午前)、

「北朝鮮の金正恩党委員長が手術を受け、重篤な(grave danger)状態にあるという情報があり、米政府が状況を注視している」

 と報じた。ニュースソースは、

「この情報を直接的に知る立場の米当局者が明らかにした」

 とした。

 韓国のマイナーなネットメディアのニュースはそれほど注目されなかったが、メジャーメディアである『CNN』報道には世界が注目した。

 金党委員長が何らかの外科的な措置を受けたという内容は同じだ。しかし、『デイリーNK』は「施術で好転」だが、『CNN』は「手術後に重篤」と方向性は逆だった。メジャーが「重篤」と報じれば、マイナーの「好転」は見捨てられる。金党委員長の健康はかなり深刻ではないのか、との見方が世界に広がった。

心臓疾患の家系、130キロの体重

 金党委員長はまだ36歳である。通常なら、健康状態が問題になる年齢ではない。

 だが、祖父の金日成主席も父の金正日総書記も、心筋梗塞で死亡したとみられている。ある意味で、心臓疾患の家系だと言える。

 さらに権力継承当時には、身長170センチ体重90キロ前後とみられたが、現在は130キロ前後とみられている。過去の映像でも少し歩くと息切れのような様子を見せていた。

 周囲の言うことを聞かない愛煙家であり、酒量も相当だという。糖尿病や高血圧の症状もあるのでは、とみられている。さらに最高権力者としてのストレスもあるだろう。

 何があっても不思議ではないとも言えることが、健康不安説を拡大させた要因の1つであった。

2つのメディアの特性

 韓国の『デイリーNK』はマイナーなインターネットメディアだが、北朝鮮内部に協力者がいて、スクープも多い。金正恩政権が2013年6月に経済改革を指示する方針を下したというのも『デイリーNK』の特ダネだった。また、北朝鮮内部の物価を継続的に追っているが、驚くほど正確だ。

 だが筆者の感覚では、地方の実情、特に中国と国境を接した地域の情報や、中央から地方に出た指示などについては強いが、平壌の権力中枢の情報には弱い。

 金日成主席は1994年に妙香山を訪問し、心臓病で倒れたとされている。「妙香山」周辺で施術というと、どうしてもこの時のことが思い浮かんでしまう。

『デイリーNK』の報道で一番疑問に思ったのは、最高権力者が外科的な措置を受けるのになぜわざわざ妙香山で行ったのかということだった。いくらそれが「施術」というレベルでも、最高権力者に外科的な措置を取るなら、医療施設の整っている平壌ではないのかという疑問だった。

 一方、『CNN』報道については、直前に『デイリーNK』報道があったのだから、在韓米大使館やCIA(米中央情報局)の韓国支部は当然この情報を本国へ報告するだろう。その情報が伝達過程で「重篤」という風にレベルアップして伝わったのではないのか、という疑いを抱いた。

 特に『CNN』のこの報道は、司会者とワシントンと東京の記者が掛け合いで報じたもので、ワシントン側から、安全保障担当で米情報当局に強いとされるジム・シュート記者が語っただけに影響力は大きかった。

 しかし、米国はスパイ衛星による情報や盗聴情報には強いが、人的なソースによる情報には弱い。もし金党委員長が手術を受けたにしても、10日もしないうちに、米国当局がこの情報を独自に入手できるだろうか、という疑問を持った。手術を受けて重篤というだけで、場所や時期についての具体的な情報がまったくなかったからだ。

韓国政府は否定し「元山にいる」

『CNN』の報道が4月21日午前10時40分ごろネットに上がると、韓国の総合株価指数は55ポイントも下落した。

 韓国の青瓦台(大統領府)の姜珉碩(カン・ミンソク)報道官は、『CNN』報道が出ると青瓦台担当記者たちにSNSで、

「現在のところ北朝鮮内部に特異動向は識別されていない。金正恩党委員長の健康不安説に関して確認できる内容はない」

 と『CNN』報道を否定した。

 それでも事態が沈静化しないため、青瓦台関係者は韓国メディアに対し、

「金正恩氏は現在、地方に滞在していると把握している。妙香山地域ではない」

 と述べた。

 青瓦台の否定で総合株価指数は少し持ち直し、前日比約19ポイントマイナスで取引を終えた。

 韓国メディアの執拗な取材に、韓国政府関係者は、

「金党委員長は正常に活動しているものとみられる。元山にいると把握している」

 と語り、情勢の沈静化を図った。

トランプ大統領「われわれは知らない」

 米国のドナルド・トランプ大統領は『CNN』の報道について、

「われわれは知らない。誰も確認していない」

 と語り、金党委員長の健康問題について米国は情報を把握していないとした。

「私たちは良い関係を築いている。もし他の誰かが大統領であれば、私たちは北朝鮮と戦争していた」

 と持論を展開し、

「元気であることを祈っている」

 と、いつもの発言を繰り返した。

 また、ホワイトハウスのロバート・オブライエン米大統領補佐官(国家安全保障問題担当)は記者団に、

「金党委員長がどういう状況か知らない。北朝鮮の権力継承について語るのは時期尚早だ」

 と述べた。

『CNN』は米当局者が、

「重篤な状態にあるという情報がある」

 と述べたとしたが、大統領も国家安保担当補佐官もそうした情報を持っていないことを明らかにしたわけだ。

 マイク・ポンペオ米国務長官は4月22日、記者団の質問に答え、

「大統領が言う通り、何が起きているのかを注視しているが、新たに付け足すことはない」

 と述べた。

 さらにジョン・ハイテン米統合参謀本部副議長も同日国防総省で記者会見し、金党委員長の健康について、

「否定も肯定もする材料がない」

 とした上で、

「今も金正恩氏は核戦力を含む軍を完全に掌握していると判断している」

 と述べた。

 さらにトランプ大統領は4月23日、『CNN』の同20日の報道について、

「不正確なフェイクニュース。彼らが過去の文書を(もとに)書いたと聞いた」

 と『CNN』報道を明確に否定した。

 4月24日には日本の週刊誌系メディアで、中国の医療関係者の話として、“金党委員長は心臓発作を起こし、中国に医療団の派遣を求めたが、これを待てない北朝鮮の医師が血管にステントを入れようとしたが時間が掛かりすぎ、植物人間と化してしまった”という衝撃的なニュースまで登場した。

北朝鮮メディアは祝電や祝い膳報道

 一方、党機関紙『労働新聞」は4月19日付で、金正恩党委員長がジンバブエ大統領へ、20日付では経済建設に功労のあった幹部へそれぞれ感謝の意を伝え、同21日付ではキューバのミゲル・ディアスカネル大統領の60歳の誕生日に際して祝電を送ったと伝えた。

 さらに23日付では、シリアのバッシャール・アル・アサド大統領が金日成主席の誕生日に送った祝電への答電を送ったと報じた。

 また、『朝鮮中央通信』は4月21日、金党委員長が80歳の誕生日を迎えた平壌市農村経理委員会元顧問の李(リ)シンジャ氏と金策工業総合大学研究家の李(リ)シフプ氏に祝い膳を送ったと報じたが、その日時などには言及しなかった。

 北朝鮮の報道は、金党委員長の写真や肉声こそないが、通常活動を続けていることを示した。

 金党委員長の父・金正日総書記が2008年8月に倒れた当時、海外からの祝電などはあったが、金正日総書記名義の祝電などはなかった。

 重要なのは、最高指導者名義の祝電が本人の決済なしに送られるのかどうかということである。党中央委常務委員会や、妹の金与正氏の判断で行えるという考え方もあるだろうが、2008年にはそういう事例はなかったようである。(つづく)

平井久志
ジャーナリスト。1952年香川県生れ。75年早稲田大学法学部卒業、共同通信社に入社。外信部、ソウル支局長、北京特派員、編集委員兼論説委員などを経て2012年3月に定年退社。現在、共同通信客員論説委員。2002年、瀋陽事件報道で新聞協会賞受賞。同年、瀋陽事件や北朝鮮経済改革などの朝鮮問題報道でボーン・上田賞受賞。 著書に『ソウル打令―反日と嫌韓の谷間で―』『日韓子育て戦争―「虹」と「星」が架ける橋―』(共に徳間書店)、『コリア打令―あまりにダイナミックな韓国人の現住所―』(ビジネス社)、『なぜ北朝鮮は孤立するのか 金正日 破局へ向かう「先軍体制」』(新潮選書)『北朝鮮の指導体制と後継 金正日から金正恩へ』(岩波現代文庫)など。

Foresight 2020年5月11日掲載

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