山田ルイ53世 一発屋?スギちゃんの「ワイルドが生まれるまで」に迫る
「売れたい」ではなく「終わりたい」
スギちゃんこと、本名・杉山英司。
1973年8月24日、愛知県一宮市で機織り工場を営む両親のもとに生を受けた。男3人兄弟の末っ子である。
父と母は家業の傍ら、夫婦(めおと)マジシャン「まじかるタケシとチャイナ百合子」として28年間舞台に立ち続けたという一風変わった経歴の持ち主。
その影響か、遅咲き芸人の笑いへの目覚めは早かった。
小学校2年生の頃。
家族で訪れた大阪、「なんばグランド花月」のステージ上では、トランポリン芸の隼ジュン&ダンがパフォーマンスの真っ最中である。
「誰かやりたい子いる?」
との呼び掛けに、いの一番に手を挙げた英司少年。
舞台に上がりピョンピョン跳ねていると、“ズボーン!!”……着地の目測を誤ったか、トランポリンの縁のネット部分に串刺し状態となった。
「グランド花月が笑い声でボカーン! それが最高に気持ち良くて、お笑いやりたいなーって!」
と小学校の卒業文集では、「吉本にはいって漫才師になる」と宣言。
コンビ名として挙げた「うんち太郎とべんき太郎」のセンスの是非はともかく、芸人スギちゃんの原点といえるだろう。
野球に打ち込んだ中学・高校時代も、部活の先輩達にイジられる役回りで、
「パンツにウンコ!」
と皆の前でブリーフ一丁となり場を盛り上げるなど、お笑いへの憧れと、ウンコに対する全幅の信頼は一切ブレることなく卒業。
そのまま芸の道へ一直線……と思いきや、地元の結婚式場に就職する。
実は一足早く、NSC(吉本興業のお笑い養成所)の大阪校を受験していたが、不合格。来たるべき大阪行きに備え、一旦働き資金を貯めることにしたのだ。
過去の雑誌インタビューで、母・百合子が、
「貧乏なうちの家計を心配してか、『お母さん、そのうち俺が食わしたるから。待っててや』といつも言ってくれて……」
と語る親思いのスギちゃんに、脛をかじる気などサラサラない。
そんな孝行息子に笑いの神が味方したか、暫くすると、「よしもとクリエイティブ・エージェンシー東海支社(現名古屋吉本)」が設立され、
「それなら、地元の方がいいか!」
と再受験。
今度は無事合格し、仕事も辞め、晴れて、名古屋NSC2期生として芸人人生の第一歩を踏み出した。
同期には、後にスピードワゴンを結成する井戸田潤、小沢一敬の2人(当時は別々のコンビで活動)もいたが、お笑いライブやテレビ出演など、早々と頭角を現し始めていた彼らに比べ、
「バイトは週6日やってたし、真剣にネタも考えてなかった。『ダウンタウンのごっつええ感じ』の“トカゲのおっさん”のネタをそのまま舞台でやったり」
と中々の体たらくだったスギちゃん。
最初のコンビはほどなく解散となり、別の同期芸人と「霊血サンデー」を結成、再スタートを切るも、相変わらずウケない。
そんな日々に嫌気がさしたか、
「『電波』か『雷波』のどっちか、必ず取ろう(出演しよう)!」
と固く誓って相方と上京したのは、1998年の秋のことだった。
このとき、芸歴4年目の25歳。
ブレイクまで、まだ13年もある。
「電波少年」「雷波少年」(日テレ)は、無名の若手芸人を起用した過酷なロケ企画で人気を博した番組。
とりわけ当時は、猿岩石やドロンズが“ヒッチハイクの旅”を完走し、一気に全国区の知名度を獲得していた。
彼らの成功を目の当たりにした若手芸人たちは、
「俺も早く“拉致”されないかなー……」
と一躍スターを夢見て浮足立ち、その分、漫才やコントといった本芸が軽視されていた時代でもある。ネタでは勝負にならぬと思い知らされた人間にとっては、なおのこと蜘蛛の糸だったに違いない。
2人の賭けは、とりあえず「吉」と出た。
機械犬(後にメカドッグ)とコンビ名を改め、心機一転浅井企画でお世話になっていた2000年、「雷波少年系ゴミ生活(の旅)」に抜擢され、不法投棄のゴミを拾いながら日本各地を巡り、翌年見事ゴール。
一応当初の目標は達成したが、以後の活動は、「爆笑オンエアバトル」(NHK)やCS放送へのご祝儀的露出等に止まり、それもすぐに無くなった。
「全く芽が出なかった。事務所の方から『まあ、アカンからよそ行ってみて?』っていう話になって……」
と当時を解雇、もとい回顧するスギちゃん。
余程傷付いたのか、
「全然パッとしなかった俺たちが、他に行ったからって売れるとは思えない」
と相方に解散話を切り出す。
「俺、最後にピンでやって、駄目だったら芸人辞めるから!」
という一方的な申し出に、
「ふざけたこと言うな! 俺はどうしたらええねん!!」
と名古屋時代から10年近く苦楽を共にした相方は猛反発したが、
「最後に、ピンで勝負して終わりたいんや!」
と一歩も譲らず、「メカドッグ」は終了。
「売れたい」ではなく「終わりたい」……いや、無理もない。
芸歴は14年目に差し掛かり、気が付けば34歳で、フリー。
“いぶりがっこ”でもこうは燻らぬ。
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