山田ルイ53世 一発屋?スギちゃんの「ワイルドが生まれるまで」に迫る

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スギちゃん、“貰い泣き”事件を語る

「売れない焦りもあったし、最後の勝負だと分かってた。これで駄目なら芸人を辞めるしかないと」

 と「R-1」に臨んだ際の悲壮な覚悟をスギちゃんが語ってくれたのは、新木場のスタジオコースト。

 この日、彼はとあるウェブCMの撮影中、その合間を縫ってのインタビューとなった。

 2012年といえば、年明け早々、「新春レッドカーペット」(フジ)「ガキ使」(日テレ)の「山―1グランプリ」と若手芸人の登竜門的番組に立て続けに出演し、前者の「レッド」では、その日、最も強烈な印象を残した者の証、レッドカーペット賞を獲得するなど、

「スギちゃんキテるなー」

「最近、チョコチョコテレビで見ない?」

 と囁かれ始めた時期である。

 傍目には、ブレイクまで秒読み段階と映ったが、

「あのときは、全くキテなかった……」

 と本人的には違ったようで、

「レッドカーペット賞取ったときに、『これでいける!』と思ってバイトを辞めたらそれ以降全く仕事が入らない。『やべえ!』ってなって」

 と苦い顔で首を振る。

 実はこれ、お笑い界の若手事情が少なからず関係していた。

「R-1」直前の彼は、芸歴18年目の38歳。

「30歳でモノになっていなければ、もう辞めるべき!」

 という当時の肌感覚からすると、40を目前に売れぬ芸人など、若手としてはとっくに定年、“終わった人”と見做されていた。

 自分自身の“遅咲きブレイク”がその定年を形骸化させ、若手芸人の高齢化という深刻な社会問題を招くことになるとは、このときのスギちゃんには知る由もないが、いずれにせよ、求人募集が若者有利なのは一般社会も芸能界も変わらない。

 特に実績もない、無名のアラフォー芸人が世に出るためには、一度や二度テレビで“爪痕”を残した程度では不十分。必要なのは、身元を保証するしっかりとした肩書き……「R-1チャンピオン」なら、申し分ない。

 そして、それを手に入れる千載一遇の機会が今目の前に。

 勿論、彼のキャリアの中で、このときほど“売れる”という領域、即ち、スターに接近したことは一度もなかった。

 もはや、ハレー彗星。76年はちと大袈裟だが、これを逃せば次が無いのも確かである。

 ただでさえ気合が入り、緊迫する局面で、

「『R-1』が決まったとき、スタッフさんがカメラ持ってコメント撮りに来た。で、この喜びを、まず誰に伝えたいですか?って聞かれたから、やっぱり親ですねと」

 周りに促され実家に電話すると、

「……ほんじゃあ、これからはいい服着ないといかんねえ」

 と母から昭和の人情劇団のような台詞が飛び出し、号泣。

 別の機会に兄からは、

「母ちゃんが知り合いに、『息子さん何やってんの?』って訊かれて『芸人や』って答えると、結構バカにした感じで『えーっ、まだやってんの!?』って言われてた」

 などと明かされまた号泣と、涙腺はガバガバになる一方。

 そんな中、迎えた本番、

「ブロック予選で負けたら、もう売れないまま。最終3組には絶対残らないと……」

 と自ら課したミッションを先述の通り無事クリアし、

「良かった……これでなんとかなるかも!」

 と張り詰めていたものが一気に緩んだ。

 最終決戦では、

「また来たぜぇー!」

 とステージに登場、手にしたペットボトルを掲げたまでは良かったが、

「これ、さっき裏に置いてたら、ゴミ入れら△○※◇てたぜぇー!」

 と早速ひと噛み。

 加えて、予選突破を至上命題としたため、

「いや、あのときはネタが無かったんや……」

 と“鉄板ネタ”はほぼ消化済みで、客ウケも良くはなかった。

 しかし、番組OA後のスギちゃんの様子を公式DVDで確認すると、

「来年こそは!」

 と他のファイナリストたちが雪辱を誓う中、

「いや、最高でした!」

「楽しかったー!」

 と“ディズニー帰り”のようなコメントを連発。

 戦いの最中、一人だけゴールテープを切っていた証左と言えよう。

 あの“貰い泣き”を、

「前から仲良かった多田さんが優勝したのが俺も嬉しくて」

 と語るスギちゃんの言葉に嘘は無い。

 ただ、一方で、こうも思う。

 あの涙の本質は安堵……心の底からホッとしていたからこそ流すことができた涙だったのだと。

 18年という長い年月、砂漠を彷徨うような下積み生活の果てに、

「……売れるかも!」

 とようやく辿り着いたオアシスである。

 そりゃあ、泣く。

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