ラグビー界のレジェンド語る「嘘つき松尾」引退試合 【発掘! 昭和のスポーツ秘話】

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 1985年(昭和60年)1月15日、国立競技場には6万人を超すラグビーファンが詰めかけた。松尾雄治率いる新日鉄釜石の7連覇がかかった日本選手権。相手は次世代スターの平尾誠二を擁する同志社大学だった。

「あれは“嘘つき松尾”の引退試合、ラグビーと決別する試合だったんです」

 ラグビー界のレジェンド、松尾雄治氏(66)は、そう振り返る。

 1月6日の社会人大会決勝で、松尾は左足首をひどく痛めていた。試合後に東京厚生年金病院でステロイドを注射したが、ブドウ球菌に感染して足首がさらに腫れた。太い注射針を刺すと膿が逆流、足首を切ってドレーン(排液管)を挿入し、即入院となった。

「腫れあがった足首を見たとき、医者から“もう終ったね”と言われて、俺も日本選手権には出場できないと覚悟した。そのシーズンは、椎間板ヘルニアで手術した腰を再び痛め、左足首は試合のたびに血や水を抜いたりで、身体はすでにボロボロだった」

 選手兼監督を務めていた松尾は、病床から電話でチームに「スタンドオフには自分の替わりに若手の佐々木和寿を使え」という指示を出した。「調子の悪いベテランより、調子のいい若手を使う」というのが、監督就任以来の絶対的なポリシーだったからだ。

 だが主将の洞口(ほらぐち)孝治は「佐々木じゃダメだ」と言い、新日鉄釜石の幹部からも「5分でいいからグラウンドに立って欲しい」と懇願された。自身の哲学を曲げ、出場を決めたのは試合の2日前。当日は痛み止めの注射を何本も打ち、テーピングで足首を固めた。

「注射のおかげで痛みはなかったけれど、まったく走れなかった。ボールを蹴っても全然飛ばない。球が来たときだけ、本能で走っていました。試合の勝ち負けも頭になくて、“なんで足が動かない俺がここにいるんだろう?”ってずっと考えていた。自分のラグビー人生の中で、最も不思議な試合でしたね」

逃げ出したい

 試合は、前半リードされて折り返したが、後半に松尾の巧妙なパスが通って31対17で同志社を下し、7連覇を達成した。試合後、仲間たちに肩車されて国立競技場を一周したが、心中は複雑で、その場から逃げ出したかったという。

「だって、それまで“調子のいいメンバーを使うんだ”と散々言い続けてきて、最後にそれを破って自分が出ちゃった。俺が佐々木だったら黙っていない。そんな奴が監督やリーダーをやる資格はない。だからケジメとして、ラグビーと決別することに決めたんです」

 その後、松尾がグラウンドに戻るまでには、19年という歳月が必要だった。50歳で成城大学の監督になり、ラグビーワールドカップ日本大会では「スクラム釜石」の“キャプテン”として、釜石鵜住居(うのすまい)復興スタジアムの試合開催にも尽力した。

 だが、足首の傷はとうに癒えても、心の傷は残っている。もし入院中のベッドに戻り、もう一度選択できるとしたらどうしますか?という質問に、松尾は少し考えてからこう答えた。

「出場しないでしょうね。連覇にこだわらず、怪我を治してもう1年やってもよかった。ラグビーは一人ひとりがチームのために戦うスポーツ。誰かが主役になる必要はなかったんです」

週刊新潮 別冊「輝かしき昭和」追憶 1964-1989掲載

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