「阪神」「巨人」“ハズレ”つかんで“アタリ”を放出…「先見の明がなかった」トレードとは
新型コロナウイルスの影響で全国に緊急事態宣言が発令され、過去に例を見ないほどの長いシーズンオフが続いているプロ野球。ストーブリーグと呼ぶには、もはや季節も過ぎてしまった感があるが、オフの興味のひとつとして選手の交換トレードがある。
フリーエージェント(FA)権の定着やポスティングシステムの一般化により、近年は件数自体が少なくなっているが、トレードを機に飛躍を遂げる選手は少なからずいる。球団側から見れば、放出した選手の活躍は「見込み違い」と言うべき事態とも言えるかもしれないが、過去にはそういった「先見の明がなかった」と悔やまれるトレードがあった。
古くは平成に入ったばかりの頃に、阪神ファンにとっては忘れられないトレードがあった。1992年のシーズン終了後、阪神は阪急、オリックスでトリプルスリーに迫る成績を残した実績を持ち、当時の1試合左右打席本塁打の日本記録保持者だった松永浩美をトレードで獲得。交換相手は、5年前にドラフト1位入団し、先発、リリーフとして活躍した野田浩司で、関西の両球団による大型トレードと言われた。
92年の阪神は、シーズン終盤までヤクルト、巨人と三つ巴の優勝争いを繰り広げた末、首位と2ゲーム差の同率2位に終わっており、松永は85年以来となるリーグ優勝への切り札として期待された。松永は開幕戦で5打数5安打と好スタートを切ったが、開幕3戦目にスライディングの際に左足太ももを痛めて戦線離脱。復帰後もすぐに故障離脱するなど、出場数はわずか80試合と期待を裏切った。
一方の野田は、開幕から先発ローテに入り、鋭いフォークで4試合連続2ケタ奪三振を記録するなど、シーズン209奪三振で17勝をマークしてパ・リーグ最多勝に輝いた。移籍3年目の95年には当時の日本記録である1試合19奪三振をマークするなど、3年連続200奪三振以上と、その素質を開花させた。
長年、プロ野球を担当するベテラン記者が当時を振り返る。
「この年の阪神は4位に終わり、ファンの期待を裏切る結果となった。松永は戦犯の一人とされたが、あろうことかシーズン終了後、この年から導入されたFA制度の日本人選手第1号として、当時のダイエーに移籍してしまった。さらに騒動の渦中で松永が、『甲子園のグラウンドは幼稚園の砂場のよう』と発言したと報道された。これは後に誤報だったとされているが、トラ党にとっては聖地とも言える甲子園を侮辱されるような言葉に、野田の大活躍も重なって、強い反感を買うことになった」
阪神絡みのトレードでは、14年オフにオリックスから阪神に移籍した桑原謙太朗は、成功の部類に入る。移籍後2年間は結果を残せなかったが、3年目の17年に67試合に登板し、リーグ最多の39ホールドと大ブレイク。翌18年も62試合登板と、セットアッパーとして活躍した。昨季はコンディション不良で登板数が激減したが、ブルペンの一角に欠かせない存在となっている。
桑原は07年ドラフト3位で横浜に入団し、1年目から先発、リリーフで30試合に登板して3勝したが、2年目以降は低迷し、10年オフにオリックスにトレードされた。オリックスでも一軍定着はままならず、横浜移籍後3年で現役を終えた嶋村一輝との交換は、どちらも成果としては微妙な結果に終わっていた。
桑原の交換相手でオリックスに移籍した白仁田寛和は、07年にドラフト1位で阪神に入団後、7年間で一軍登板がわずか6試合と低迷が続いた。オリックス移籍1年目の15年にリリーフとして自己最多の43試合に登板したが、翌16年は度重なる故障で7試合登板に終わり、この年限りで戦力外通告を受けた。
3球団による移籍劇は、プロ9年目でタイトルホルダーとなり、3人のうち唯一、現役を続けている桑原を獲得した阪神がもっとも得をしたトレードと言える。残りは言ってみれば、“ハズレ”である。
トレードには1対1ではなく、複数選手の交換もあるが、16年オフに行われた巨人と日本ハムの2対2のトレードは、今のところは大きく明暗が分かれる結果となっている。
巨人からトレード要員となったのは、大田泰示と公文克彦。大田は東海大相模高から08年ドラフト1位で入団。原辰徳監督直系の後輩で、右のスラッガーということもあり、将来の巨人を背負う選手として期待された。大田は高卒1年目から一軍出場を果たしたが、変化球への対応に課題があり、FAや大物外国人で積極的に補強を行うチーム体質も重なって、なかなか出番が増えなかった。それでも15、16年には60試合を超える出場数で4番も任されるなど、徐々に大器の片鱗は覗かせていたが、16年オフにとうとうトレード通告を受けた。
移籍した日本ハムでは、1年目から外野のレギュラーポジションをつかみ、初の規定打席到達で15本塁打を記録。その後も故障に見舞われながらも、外野の一角として欠かせない存在となり、昨季は“恐怖の2番打者”として自身初のシーズン20本塁打をマークするなど、チームの顔的存在になった。
公文も巨人では3年目まで一軍登板はわずか3試合のみ。16年にようやく12試合に登板したが、一軍の戦力とは言い難い存在だった。17年に大田とともに日本ハムに移籍すると、移籍1年目から中継ぎとして41試合に登板し、3勝0敗、防御率2.70と大活躍。18年は57試合で11ホールド、19年には日本記録となる「一軍公式戦初登板から165連続登板無敗(最終的に174試合まで記録更新)」を記録するなど、61試合で17ホールドと、リーグを代表するリリーバーとなった。もともと最速152キロの速球と切れ味鋭いスライダーには定評があったが、巨人では登板機会が与えられず、新天地で飛躍した典型的な選手と言える。
大ブレイクを果たした2人に対して、巨人が交換相手として獲得したのが、吉川光夫と石川慎吾。吉川は12年に14勝をマークし、防御率1.71で最優秀防御率のタイトルを獲得してリーグMVPにも輝いた大物左腕だった。巨人でも左腕エースとして期待されたが、ローテ定着はならず、移籍1年目はわずか1勝に終わった。翌18年は6勝を挙げたが、リリーフで起用された19年は9試合に登板したのみで、シーズン途中に鍵谷陽平、藤岡貴裕とのトレードで宇佐見真吾とともに日本ハムに移籍し、わずか3年で古巣復帰となった。
そのなかで石川は移籍1年目から99試合に出場して自己ベストの5本塁打、20打点と数字は残した。現在26歳で“ダイナマイト・シンゴ”の異名も持つ勢いのある存在だが、移籍2年目以降は出場機会が増えず、レギュラー奪取には至っていない。収支で言えば、大損である。
ただ、“先見の明”という意味では批判を免れない巨人ではあるが、一方で「チームならではの事情がある」と前出のベテラン記者は言う。
「巨人の場合は伝統的にもそうだが、特にFA制度の導入以降、他球団からの大物選手の移籍により若い選手がレギュラーに定着しにくい土壌がある。石川も昨年は丸佳浩、今年はパーラと、3つしかない外野のポジションに毎年のように大物選手が加わってくる。過去を遡ってみても、生え抜きで主力となったのは、高橋由伸や阿部慎之助のようなアマチュア時代からのエリートがほとんど。現在も高卒生え抜きで主軸となっているのは坂本勇人と岡本和真ぐらいで、いずれもドラフト1位の選手と、ファームから叩き上げの選手というのは、なかなか出にくい状況が続いている。トレードに関しても、その場しのぎの補強が多く、逆にFA補償選手で有望な若手選手がどんどん流出してしまう事態になっている」
最後に、トレードには選手同士の交換ではなく、一方の球団が金銭のみを支払う金銭トレードも存在する。古くは昭和の終わりに中日から近鉄に移籍し、当時常勝軍団だった西武との名勝負で主役となったブライアントが印象深い。当時は一軍登録できる外国人が2人の時代で、枠から漏れて二軍でくすぶる大物打ちの外国人に近鉄が目を付けた。シーズン途中で移籍したブライアントは、本塁打を量産して球史に残る10.19決戦から、翌年の優勝のかかったダブルヘッダーでの4打数連続本塁打のドラマを演出した。
近年では、05年オフに中日から楽天に移籍した土谷鉄平が、トレードを機に人生を変えた。00年ドラフト5位で中日に入団した土谷は、津久見高時代から「九州のイチロー」と呼ばれた打撃センスの持ち主だったが、3年目まで一軍出場がなく、04年に代走、守備固めが主で50試合に出場したのが最多だった。
06年に楽天に金銭トレードで移籍した土谷は、新天地で1年目から103試合に起用されてレギュラーに定着。移籍4年目の09年には、打率.327でパ・リーグの首位打者に輝いた。移籍を機に登録名を「鉄平」に変更し、出場機会が増えた末の素質開花は、本家のイチローに通じるものがあった。
もっとも、鉄平の場合は中日に先見の明がなかったわけではない、と当時を知る記者は力説する。
「当時、中日の監督だった落合(博満)監督は、土谷の打撃センスを高く評価していたが、あの頃の中日は常勝チームで、レギュラーもほとんど固定されていた。監督は『他のチームなら、出番があるのではないか』と、鉄平をトレード要員にした。このケースはむしろ、落合監督に先見の明があったからこそのトレードだったと言える」
度重なる開幕延期で、6月開幕も微妙な状況と言われている今年のプロ野球。例年ではトレード期限が7月31日となっているが、今季もそれは適用されることになるのか。いずれにしても「先見の明がない」は、逆に言えば「埋もれた才能が発掘される」結果にもなることにもなる。もっと活発にトレードが行われることに期待したい。