昭和48年8月、「野村克也」が「王貞治」と本塁打争いを繰り広げた“真夏の23日間”

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 今年2月11日に84歳でこの世を去った野球解説者の野村克也さん。現役時代には史上二人目の三冠王を達成するなど、輝かしい成績を残した名選手だった。そこで、今回は世界のホームラン王である王貞治と、通算本塁打記録をかけて激闘を演じた1973年(昭和48年)の“23日間”を振り返ってみたい。(以下、敬称略)

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 南海時代の野村克也は、1972年(昭和47年)のシーズン終了時点で、歴代トップの通算本塁打551本を記録していた。2位は534本の王貞治(巨人)。37歳の野村に対し、王はホームランバッターとして脂がのりきった32歳。抜かれるのは時間の問題だったが、野村は内心「600本までは先に行きたい」と期していた。だが、翌73年、その願いは、目標まで37本を残して、無残にも打ち砕かれてしまう。

 この年の野村は、前期(同年からパ・リーグは2シーズン制)終了の7月8日の時点で3割1分4厘の高打率をマークしたが、本塁打は12本と伸び悩んだ。一方、王は同17日の大洋戦で22号を放ち、7本差まで詰めてきた。オールスターを挟んで後半戦が開幕すると、王は1ヵ月近くも足踏みする野村を尻目に、8月7日までの10試合で5本塁打とチャージをかけ、2本差に迫る。

 そして、翌8日の大洋戦。1回に左中間席最深部に先制の28号2ランを放った王は、5回にも右翼場外に特大の29号。これで通算本塁打は563号に到達して、ついに野村と肩を並べた。

 振り返ってみると、野村と王の通算本塁打は最大で120本差だったが、王が入団から足かけ14年で、「雲の上の人のような存在だった」大先輩に追いついたことになる。

「僕にとって、ノムさんは目の前にいる唯一の目標だった。引退してしまった人は、もうホームランを打たないが、ノムさんはまだ走っている汽車だもの」

 そう敬意を表した王は、「正直言って、今年一杯はとても追いつけないと思っていたんだ。僕の打つ本数にも限度があるし、ノムさんのペースが意外に遅かったから、助かったのさ」と語っていた。

 一方、追いつかれた野村は、「おめでとうと言うのはおかしいな。何と言えばいいのかな」とおとぼけ口調で笑いを取ると、「現状を考えれば、時間の問題と思ってた。相手が王だけに……。相手が悪いわ」とボヤいた。

 だが、弱気発言とは裏腹に、ここから歴代1位の意地と面子をかけた23日間にわたる“真夏の抵抗”が始まる。

 同10日の中日戦、王は3回に12年連続となる30号3ランを放ち、歴代単独トップに躍り出るが、野村も太平洋戦の6回に負けじと、決勝2ランですかさず追いつく。

「しかし、ノムさんも頑張るな。僕は2人(セ・リーグの本塁打王を争う阪神・田淵幸一)も相手にしなくちゃいけないから大変だよ」と、今度は王がボヤく番だった。

 野村は翌11日の太平洋戦でも2回に14号ソロを放ち、再び単独トップに立つ。にもかかわらず、「ワシにホームランを打たれるようでは、もう投手交代やで」と自嘲めいた発言で、報道陣を煙に巻いた。

 王も負けていない。12日の中日戦で4回に右越え3ランを放ち、たった1日で野村に追いつく。だが、翌々日のヤクルト戦では、5打席連続敬遠と勝負を避けられてしまった。

 この機を逃さず、野村は翌15日、ロッテ戦の初回に先制の左越え2ラン。だが、1歩リードもつかの間、12日の中日戦から7打席連続四球だった王も4回、クサいところをついて歩かせようとしたヤクルトバッテリーが、投手有利のカウント1-2から色気を出した“失投”を見逃さず、右翼席中段に叩き込む。さらに8回にも右中間最深部に33号ソロを放ち、あっという間に野村を抜き返した。

 王は「ああいう(四球)攻めのあとに打てたということは、年数の賜物。常に冷静な目でボールをとらえられるようになりました」と話し、驚くばかりの集中力を見せた。

 これに対して、野村も「もう“選手野村”としては、やるだけのすべてのことをやった。監督を引き受けてからは、1ホーマーよりもチームの1勝により価値を感じている」と無関心を装いつつも、内心激しく闘志を燃やし、翌16日のロッテ戦で7回に王と並ぶ通算567号のダメ押し2ランと、しぶとく食い下がる。

 その後も8月21日の広島戦で、王が5試合ぶりに34号2ランを放てば、野村も2日後の日本ハム戦で6回に17号決勝ソロ。同26日のヤクルト戦(神宮)で、王が2回に35号決勝ソロを打てば、野村も阪急戦の9回に18号ソロと、熾烈なデッドヒートが続く。

 しかし、後半戦以降23試合で13本塁打と波に乗る王は、この日から5試合連続の計6アーチとさらにペースを上げる。野村も3本の固め打ちで必死に食らいつくが、同30日、3本差がついた時点で、ついに勝負あった。

 特筆すべきは、野村に引導を渡した8月29、30日の広島戦での計3発が、いずれも“ボール打ち”だったことだ。29日の2発は、本人いわく「2本ともボールだった。それも打ちづらい高めのね。だから、調子は相当にいいんだろうね」。この日は野村も初回に17年連続20本塁打となる通算571号を放ち、王に追いついたが、息をつく間も与えず、2差と突き放したのは効いた。さらに、翌30日の初回に飛び出した通算574号も、広島の外木場義郎がカウント1-2から内角高めに外したボール球をとらえたものだった。

「野球界に入って、今ほど伸び伸びと失敗も恐れずに結果も考えず打てるというのは初めてなんです。だから、悪球打ちという冒険もできるんですね」と、王は自らを分析している。

「ボールに手を出す者は一流になれない」という自らの野球観を覆された野村は、皮肉にもボール打ちの3本が決定的な差となり、必死の追走も23日目でジ・エンドとなる。

 後年、報知新聞の宇佐美徹也記録部長だけが「あのときは凄い抵抗をなされましたねえ」と褒めてくれた。「いい仕事は必ず見てくれている人がいる」と知った野村は、報われた気持ちになったという。

久保田龍雄(くぼた・たつお)
1960年生まれ。東京都出身。中央大学文学部卒業後、地方紙の記者を経て独立。プロアマ問わず野球を中心に執筆活動を展開している。きめの細かいデータと史実に基づいた考察には定評がある。最新刊は電子書籍「プロ野球B級ニュース事件簿2019」上・下巻(野球文明叢書)

週刊新潮WEB取材班編集

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