「成り上がり」と「落ちぶれ」が生む毒親――中国史上唯一の女帝・武則天の毒親

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究極の毒母・楊氏

 武則天が、親族を殺したのは、異母兄や父方の親族によるいじめはもちろん、エリオットの言う「急激な凋落」と「にわか成金」を同時に両親に持つという、ストレスフルな生い立ちが大きく影響しているのではないか。

 しかも成り上がりパパが落ちぶれママのプライドを満足させていたならともかく、早死にした上、自分より出身階級の低い夫の親族たちにいじめられたとなれば、ママの怨念はいかばかりか。

 14歳で太宗の後宮に入ることになった武則天には、「これを機に、陰湿な異母兄たちのいじめから離れられる、そして逆転した立場で見返してやれるかもしれない、そのような期待がはたらいていた」と氣賀澤氏は指摘していますが(※1)、彼女をそんな気持ちにさせたのは楊氏ママにほかならないでしょう。

 その太宗も52歳で崩御してしまいます。27歳(※4)だった武則天はまだ子もない身。彼女はいったん尼になり、今度は太宗の息子の高宗と男女の関係になります。

 その時期ははっきりしない点が多いといい、いきさつも不明のようですが、武則天にしてみれば再び権勢への野望が燃えさかったことは想像にかたくありません。

 それ以上に、楊氏ママの期待は武則天に集約していったはずです。

 王氏というれっきとした皇后がいながら、武則天が皇后を目指すというような無茶をしたのも、母の入れ知恵があったのでは? とさえ思ってしまいます。

 彼女は娘が王皇后の廃位を画策していた時、相談に乗り、娘のために何度も高官の長孫無忌の屋敷に赴き、働きかけていました(結局、無忌は言うことを聞かず、659年、左遷され自害させられる)。

 のみならず、気に入らないことがあれば娘に告げ口をしてもいます。

 武則天が皇后となったあとのこと。一族が集まる宴会の席で、楊氏は彼らに、

「誰のおかげで出世できたと思うか」

 と尋ねました。

 楊氏としては娘のおかげという感謝を期待しての発言で、子の功績を自分の手柄にする毒親の典型です。

 が、甥の武惟良らの答えは彼女の意に反するものでした。分不相応な地位になったため、日夜、間違いを犯すのでは……とハラハラしている――と、ありがた迷惑と言わんばかりだったのです。

 腹を立てた楊氏ママはこれを娘に告げます。

 怒った武則天はいとこの惟良や異母兄たちを左遷したり罪を着せたりして死に追いやってしまいました。

 武則天以上にざまぁみろとほくそ笑む楊氏の顔が目に浮かぶではありませんか。

 落ちぶれママであった楊氏は、娘に大きな期待をかけ、娘の手柄を我が物とし自分の欲望を満たし、他人をコントロールしていました。

 かなり危険レベルの高い毒親です。

 普通であれば彼女のような親の子供はつぶされるところで、それかあらぬか、長女は次女の武則天に殺され、三女は結婚後、子供もできぬうちに早世しており、三人娘のうち生き延びたのは武則天だけでした。

 武則天の激しさの陰には、楊氏という落ちぶれママの怨念や恨み、悔しさや欲望があったことは間違いありません。しかも父は成り上がりという、階級移動のストレスを受けた親をダブルで持っているのですから、そりゃあ壮絶な人生になるのも無理はないでしょう。

 武則天は中国の人とはいえ、古代日本に――毒親日本史的な観点からしても――多大な影響を与えているので取り上げた次第です。その影響の実態については、次回以降で。

※1 氣賀澤保規『則天武后』(講談社学術文庫)
※2 今泉恂之介『追跡・則天武后』(新潮選書)
※3 天武以前は大王。武烈などの呼び名も8世紀以降にできた漢風諡だが便宜上使用。
※4 氣賀澤氏の623年出生説による。武則天の出生は624年説、625年説もある。

大塚ひかり(オオツカ・ヒカリ)
1961(昭和36)年生まれ。早稲田大学第一文学部日本史学専攻卒。個人全訳『源氏物語』、『ブス論』『本当はひどかった昔の日本』『本当はエロかった昔の日本』『女系図でみる驚きの日本史』『エロスでよみとく万葉集 えろまん』『女系図でみる日本争乱史』など著書多数。

2020年5月1日掲載

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