「聖帝」として知られる仁徳天皇 歪んだ「毒子」が犯した数々の惨劇のワケ
子供の人生を奪い、ダメにする「毒親」。近年、盛んに使われだした言葉だが、もちろん急に親が「毒化」したわけではない。古代から日本史をたどっていくと、実はあっちもこっちも「毒親」だらけ――『女系図でみる日本争乱史』で、日本の主な争乱がみ~んな身内の争いだったと喝破した大塚ひかり氏による連載第2回。スケールのでっかい「毒親」と、それに負けない「毒子」も登場。日本史の見方が一変する?!
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皇位継承を巡る兄弟間の争い
医者や教師、会社社長など立派な肩書きを持つ人、尊敬されている人の子が、ぐれたり、引きこもったり、最悪、親きょうだいを殺傷したりすることがあります。
2006年には、医師である父に虐待的に勉強を強いられていた長男が、家に火を付けて弟妹と継母を殺した事件もありました。その根に父の存在があったことは言うまでもなく、毒親(と言うにはあまりにひどい親ではありますが)へ向かうはずの憎悪が弱い立場の親族や、毒親が愛情を注ぐ対象に向けられるというのも、ありがちなことです。
そこで思い起こされるのは、「聖帝」とか「賢王」「賢主」と呼ばれる人たちの親子きょうだい関係です。
民のかまどに煙が立たぬのを見て課役を3年間やめた“聖帝”(『古事記』)として名高い仁徳天皇は、父・応神に対しても従順な孝子として描かれています。応神が「そなたらは年長の子と年少の子とどちらが可愛いか」と、年長の子であるオホヤマモリノ命とオホサザキノ命(のちの仁徳天皇。以下、仁徳)に尋ねた際、オホヤマモリが「上の子が可愛い」と答えたのに対し、仁徳は「下の子が可愛い」と答えた。仁徳は父・応神が下の子であるウヂノワキイラツコに皇位を譲りたいという意を汲んで、今のことばで言えば「忖度して」そう答えたのです。
こうしてウヂノワキイラツコは『古事記』によれば“天津日継<あまつひつぎ>”を保つよう父に言われ、天皇死後、仁徳は父の命に従って、“天下”をイラツコに譲った。
末子相続説さえある当時、下の子のウヂノワキイラツコが皇位を継ぐのはさほどおかしいことではないとしても、彼の母の身分はオホヤマモリや仁徳の母たちと比べて劣っている(前回参照)。
納得いかないのは年長の子であるオホヤマモリです。
彼は父の崩御後、その遺志に背いてさっそく弟のウヂノワキイラツコを殺そうと兵を準備します。ところが、そのことを仁徳がウヂノワキイラツコに告げたため、兄のオホヤマモリは返り討ちにあって殺されることとなります。
問題はそのあとです。
残されたウヂノワキイラツコと仁徳は皇位を譲り合い、『古事記』によればウヂノワキイラツコが先に崩御したため、『日本書紀』によれば自殺したため、仁徳が即位したというのですが……。
上の兄を殺してまで皇位を守ったウヂノワキイラツコが、下の兄の仁徳とは皇位を譲り合ってあっさり死んだというのはあまりに不自然です。
ウヂノワキイラツコは『播磨国風土記』では“宇治天皇”と記されている。
朝廷が『古事記』『日本書紀』を編纂したのとほぼ同時期、編纂が命じられた『風土記』には、ヤマトタケルノ命や神功皇后も天皇と記されていて、歴代天皇が確定する以前の実態が反映されています。ウヂノワキイラツコは応神死後、皇位についたと見て間違いないでしょう。『古事記』にも彼は“天津日継”を受けた(皇位を継承した)とはっきり書かれています。
一方、『日本書紀』では父の死後も“太子”と記されていますが、父が死ねば太子は即位するのが普通です。現に『古事記』では父の死後、兄の仁徳が“天下”をイラツコに譲ったとも書かれていて、この時点でイラツコは即位した可能性が高い。
一連の流れを考えれば、実は仁徳もはじめから皇位を狙っており、三兄弟の皇位継承争いに結果的に勝利した、あるいは実質的に皇位についていたウヂノワキイラツコを死に追いやったと見るのが自然ではないでしょうか。
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