コロナで「緊急事態」だからこそ見たいドキュメンタリー「さよならテレビ」

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「テレビの闇って、もっと深いんじゃないの?」

 渡辺くんはミスは多いし物覚えも悪そうだったけど、仕事は一生懸命。素直さやピュアさはあり、時間をかけて磨けば、いい記者になりそうな気もした。最終的に彼はクビになってしまうのだが、2年も3年もかけて新人を育てる余裕は、今のテレビ業界にはないのかもしれない(とはいえ、もうちょっとマシなのおらんのかとは思う)。

 デスクや編集長といった上層部の人々は、一見すると人間味に欠ける冷淡な人物にも見えるが、彼らは彼らなりに、組織のなかでやるべきことをやりながら奮闘しているのだと伝わってくる。ただ、組織に対して従順であるあまり、何か大事なものを見失っているようにも思われた。

 主要人物の1人である福島アナも、苦悩し奮闘する姿を見せる。ただ、この人は澤村さんや渡辺くんとは対照的に“優秀な人”であるため、言動にソツがなく、いささかスマートすぎる。彼の優等生的な葛藤を描くだけであれば、もっと収まりの良いキレイな自画像風のドキュメンタリーで終わったかもしれない。

 この作品を凡庸なドキュメンタリーに終わらせなかったのは、やはり渡辺くんと澤村さんの不器用コンビの存在が大きい。澤村さんは契約記者だから社内での評価を気にしていないのか、時に挑発的なこともバンバン口にする。

「キレイにまとめにかかっているみたいだけど、テレビの闇って、もっと深いんじゃないの?」

 土方監督からテレビに対する思いを問われると、そんな逆質問をしてきた。テレビ番組の多くが“予定調和”から抜け出せないことへの疑問符だろう。

 映画を見終えて席を立つと、館内の掲示板にキネマ旬報などさまざまな媒体に掲載されたレビュー記事が貼られていた。そのなかで印象に残ったのは、何かの雑誌に掲載されていた元フジテレビ笠井信輔アナによる評価だ。

「面白すぎるものは危険だ」と前置きをした上で、どちらかというと否定的な見解を示している。テレビマンという“あちら側”から見れば、この作品は「仲間を売った」、「手品の種明かしをしている」などのように見えるのだろう。それはテレビの作り手が抱く偽らざる感想だ。文字通り“カメラの裏側”を映しているのだから、無理もない。

 ただ、それで思い出されるのは、澤村さんが居酒屋で酔いに任せてこぼしたこんなセリフだ。

「いつの頃からか、テレビで伝えていることが嘘っぽく見えるようになっちまったんだよな」

 ツイッターなどで取材の過程があらわになったり、多面的な見方が共有されるようになってくると、作り込まれたテレビ番組に対して“手品師が見せる手品みたいなもの”という冷めた見方が広がった。タネも仕掛けもあるんでしょ、という具合に、無邪気な気持ちでテレビを見られなくなってしまった。

 そんなことを思いながら「さよならテレビ」というタイトルに込められた意味について考えた。何に対して別れを告げているのかというと、本作のなかで繰り返し示されてきた”昭和的なテレビの作り方”かもしれない。タネも仕掛けもあって、フレームのなかを作り込み、完成した形で視聴者に提供する。視聴者は作り手の作為には気づかない。だが、そういう昔ながらのTVショーは、通用しなくなった。

 ならば作為や作り込みをやめれば良いのかというと、そう簡単な話ではない。映画のラストでは、土方監督とスタッフたちが撮影した素材を見ながら「このシーン最高だよな」なんて言い合う場面が流れ、これまでのシーンにも多かれ少なかれ作為や作り込みが加えられていたのだと明かされる。邯鄲の夢から覚めたと思ったら、それもまた夢でした、みたいな話だ。心地よい裏切りである。

「カメラが写しているものって、“現実”なの?」

 と、澤村さんが挑発的に語っていたセリフが、ここでも思い出された。

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