野球「早慶戦」が開始4年で中止に原因は…明治39年に起きたあまりに熱すぎる“応援合戦”

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にっぽん野球事始――清水一利(9)

 現在、野球は日本でもっとも人気があり、もっとも盛んに行われているスポーツだ。上はプロ野球から下は小学生の草野球まで、さらには女子野球もあり、まさに老若男女、誰からも愛されているスポーツとなっている。それが野球である。21世紀のいま、野球こそが相撲や柔道に代わる日本の国技となったといっても決して過言ではないだろう。そんな野球は、いつどのようにして日本に伝わり、どんな道をたどっていまに至る進化を遂げてきたのだろうか? この連載では、明治以来からの“野球の進化”の歩みを紐解きながら、話を進めていく。今回は第9回目だ。

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 1903(明治36)年11月21日午後1時30分にプレーボールとなった、記念すべき第1回早慶戦には約3000人の観客が集まった。試合は早稲田がしぶとく食い下がり、7回を終わって1点のリード。しかし、8回、慶應が4点を入れて逆転し、最終回の早稲田の反撃を1点に抑えて結局、11対9で辛くも逃げ切った。

 試合前の予想では「慶應有利」という声が圧倒的に高かった。それだけに、この結果は負けこそしたものの、格下と思われていた早稲田の善戦というべきだろう。そして、慶應も素直に早稲田の力を認めないわけにはいかなかったのか、試合後、両校が話し合い、翌年から毎年、定期戦としてお互いの球場で行うことを決定した。

 いよいよ、いまに続く早慶戦の始まりである。そして、第1回の翌年1904(明治37)年には6月4日と10月30日に試合が行なわれ、いずれも早稲田が勝利。さらに1905(明治38)年3月27日に行われた第4回早慶戦は慶應が勝利して、通算成績は2勝2敗の五分となった。

 その後、日本の野球チームはもちろんスポーツチームとしても史上初となる早稲田のアメリカ遠征を挟んで、10月には通算5試合目となる早慶戦が行われた。この時、現在でも東京六大学リーグの試合形式となっている「3回戦2戦先勝方式」、いわゆる「勝ち点制」が初めて採用されたが、これは早稲田が遠征先のアメリカから持ち帰ったシステムである。

 さて、10月28日、早稲田・戸塚球場での第1戦(通算第5戦)は5対0で慶應が先勝、続く11月8日の第2戦は(同第6戦)は1対0で早稲田が雪辱した。そして、1勝1敗で迎えた第3戦(同第7戦)は早慶戦史上初の延長戦となったが、早稲田が3対2で勝利し、初の3回戦方式での対戦を2勝1敗で勝ち越している。

 まさに実力伯仲、つねにどちらが勝ってもおかしくない接戦を演じていた早慶の両校だっただけに世間の関心も高く、このころすでに両校応援団の過熱ぶりが大きな話題となっていた。そうした中、1906(明治39)年秋、4年目の定期戦が行われることとなる。第1戦(同第8戦)は10月28日。慶應が接戦を制して2対1で勝ったが、勝利に歓喜した慶應応援団は、あろうことか、早稲田の創始者、大隈重信邸の前に集結し、「万歳、万歳、慶應万歳」の大合唱をしてしまった。もちろん早稲田の応援団にしてみれば最大の侮辱であり、断じて許すことのできない行為であった。

 11月3日の第2戦(同第9戦)。今度は3対0で早稲田が雪辱すると、当たり前のことながら早稲田応援団は、慶應の創設者である福沢諭吉邸前に集まり、先日のお返しとばかりに「万歳、万歳、早稲田万歳」の大合唱だ。

 こうなると両校のボルテージは上がる一方なのは当然だ。さらに加えて、それ以前から両校の間には応援席の配分をめぐってのトラブルがくすぶっていたこともあって一発触発の状況となってきたのである。雌雄を決する第3戦(同10戦)は当初11月11日の予定となっていた。

 しかし、両校応援団の過熱ぶりからすると、もし、このままの状況で試合が行われれば、どちらが勝ったにしても何が起こるか分からない。ヘタをすれば、大きな騒動になってしまう。

 そこで、早稲田側は応援の全廃による試合の実施を提案した。しかし、慶應側はこれに応じず、試合の中止を主張。その後、何度となく両者で話し合いが行われたものの、これといった解決策を見出すことはできず、結局、早稲田が慶應の主張に同意することで試合前日の10日 になって、ついに早慶戦の中止が正式に決定した。

 当初、早稲田側は中止とはいっても一時的なものであり、日程の延期というつもりで、すぐにでも再開されるものと軽く考えていたらしい。

 しかし、慶應側の対応は早稲田の予想をはるかに超えていた。試合中止から3日後の11月13日、塾長以下の教授連も交えての緊急の学生集会を開催し、今後、野球のみならず、あらゆるスポーツで早稲田との対戦を拒否することを決議してしまったのである。

 こうして初めての対戦からわずか4年、9試合を戦っただけで早慶戦はその幕と閉じることとなった。

【つづく】

清水一利(しみず・かずとし)
1955年生まれ。フリーライター。PR会社勤務を経て、編集プロダクションを主宰。著書に「『東北のハワイ』は、なぜV字回復したのか スパリゾートハワイアンズの奇跡」(集英社新書)「SOS!500人を救え!~3.11石巻市立病院の5日間」(三一書房)など。

週刊新潮WEB取材班編集

2020年4月11日掲載

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