新型コロナ「米プリンストン大学」の対応と「検疫」の歴史
ジョージアの自然派ワインについて紹介している間に、世界は大きな混乱に見舞われることになった。新型コロナウイルスは瞬く間に世界を覆い尽くそうとしている。
筆者の米プリンストン大学での研究滞在も、ほぼ予定通りに終えたとはいえ、最後は混乱の中で現地を離れることになった。
本来ならアメリカ大統領選挙は当然のこと、今年秋に行われる予定のジョージア(グルジア)の総選挙について詳しく述べる予定であったが、やはり新型コロナのことも少し記そうと思う。
当初は極めて楽観的だった
プリンストン大学は、卒業生あたりの寄付金額がハーバードを上回るという、文字通り世界最強の大学である。
世界中から招かれた超一流の学者の講義を食事付きで聞くことができ、しかも筆者のような狭い専門分野の人文学者でも、是非とも受講を希望する講義が同じ時間に重なってしまうほどの充実度であった。そして、そのほとんどの講義は実際に極めて刺激的であった。
まさしく知の世界におけるアメリカの繁栄ぶりを体感してきたが、3月には新型コロナによる現地の混乱ぶりもまた目の当たりにすることになった。
プリンストン大学があるのは、3月に入って爆発的に感染が拡大したニューヨーク州の隣、ニュージャージー州である。3月4日に1人目の感染者が発表されると、2週間で感染者427名まで急増した。
ただし、このように記すと急に緊急事態が発生したように思えるが、3月の最初の週は現地でも、また報道レベルで見た世界でも、極めて楽観的であったように思う。
事態が深刻の度合いを急に増していったのは3月9日の週以降であり、それでも当初は「来週以降どうなるかわからない」といった曖昧な説明であった。
このように、当初は現地でもあまり危機感が感じられなかった点は、今後の教訓となろう。
プリンストン大学の危機対応
大学の危機対応は、一度立ち上がると、極めて迅速であった。アメリカはまさに学期の途中であり、3月から4月は学事暦でもっとも勉学に集中するべき時期であった。
また、多くが寮生であるが、短期間で学生を一斉に帰郷させ、わずか1週間ほどの準備期間ですべてオンライン授業に移行したのである。同様に5月末までの学期中に企画されていたセミナーなども即座に一斉に中止が通告された。
一方で、帰国できない留学生らのために大型スーパーまでのシャトルバスなどの足は確保していた。
もっとも、大学では緊急対応がとられていても、街中でマスクをしている人をほとんど見かけなかったし、学生帰郷後も暖かい日には、残った者たちが外でバレーボールに興じる姿も目にした。
普段は深夜まで開いているのが普通のアメリカのエリート大学の図書館が全休となるのは、戦争中でもあり得なかったはずで、近代学問はじまって以来の事態ではないだろうか。
どこか白日夢のようで、目に見えない敵との戦い方は、なかなか身体で理解できるものではないということもまた残念ながら実感した。
しかし、特にニューヨークの感染の広がりは加速的で、衝撃的であった。ちなみにニュージャージーでも、1人目の感染者発表から1カ月が経った4月5日現在の感染者数は、3万7505名となっている。
新型コロナの蔓延は、コミュニケーションのあり方を変え、国際的な交流に多くを依っていた学問の世界にも大きな問いかけを投げかけている。終息の見えない闇の中に世界中が置かれている。
拡大を阻止しているジョージア
アメリカはもとより、筆者にとって縁の深いイランは、より早くコロナ禍に見舞われた。SNSによれば、これまで3度にわたって訪れたいわば秘境の里である中西部のフェレイドゥーンシャフルでも感染者がでたという。
この場所は、17世紀の初頭にジョージア人が強制移住させられたが、あまりに隔絶していたために今でもその当時のジョージアの方言がそのまま伝わっているという極めて珍しい地域である。数百年にわたってなかなか人が往来できなかった地域でも、現在は様々なネットワークに結びついており、コロナ禍を避けることは出来ないのであろう。
イランでは春分が新年に当たり、盛大に祝うのだが、テヘランは家族1人のみが買い物のために外出を許可される状態であると聞く。
ジョージアはといえば、最初がイラン、次いでイタリアからの移動者が新型コロナ発症者となった。
アジアとヨーロッパの交差点としての歴史的なジョージア国の立ち位置をよく示している。
それでも、4月5日現在で感染者はまだ200名に達しておらず、観光立国と近年の諸外国との結びつきなども考えれば、(400万に満たない人口とはいえ)拡大をよく阻止している。
3月半ばに行った非常事態宣言と外国人の入国禁止に加えて、3月31日にはギオルギ・ガハリア首相が夜間の外出禁止や公共交通機関の停止、身分証明書の携行義務など制限の強化に踏み切った。特に70歳以上の場合は、最寄りの食料品店、薬局、病院に通う以外は原則外出禁止とされた。
ジョージアはソ連時代から医療水準はそれなりに高く、近年でも物価や学費の安さのためにインドから大量に医大生が留学してくるほどである。
しかし、貧富の差の拡大や、ソ連後継諸国が一様に苦しむ公共機能の低下・不在も顕著であり、さらには若者の海外流出による高齢化も著しい。ひとたび医療破綻が起これば、たいへんな惨事を招くという強い危機感が共有されているように思う。
ちなみに3名のベテランの医師が政府アドバイザーとして活躍しており、SNSなどでも人気沸騰中である。
サロメ・ズラビシュヴィリ大統領(68)率いるジョージアの政府要人は、ギオルギ・ガハリア首相(45)を筆頭に皆非常に若いが、ここぞという時の危機対応でベテランが力を発揮している点もまた興味深い。
キリスト教国ジョージアでは復活祭が盛大に祝われるが、今年は当然ながら難しいであろう。ちなみに他国同様にジョージアでも一時、宗教礼拝による感染が問題となった。
アメリカでも、一時はドナルド・トランプ大統領が復活祭までには経済が回復する希望的観測を口にしたこともあったが、一転して最悪の状況を見込む事態となっている。
命芽吹く春は、今年については暗い影が世界を覆う状態で推移していく、と残念ながら思わざるを得ない状況である。
「クオランティーン」の歴史
数百キロも離れた人と容易にビデオ通話ができるようになったこの時代に、こうしたウイルスが人を介してこれほど蔓延するとは誰も想像すらしていなかっただろう。
もっとも、グローバル化と疫病は歴史的に見ても切っても切れない関係にある。
このところ急に人口に膾炙するようになった「quarantine(クオランティーン)=隔離、検疫」という単語には馴染みがあった。筆者が監訳者として携わった『黒海の歴史』(明石書店/2017年)に登場する単語なのである。
すでに各種報道で説明されているかと思うが、これはイタリア語で「40日間」を意味する。
ヨーロッパの歴史において、グローバル化が進んだ時代には東方から目がくらむような富がもたらされたのであった。
それは、たとえばモンゴル帝国で平和による東西交易が促進された13世紀である。マルコ・ポーロが活躍した時代といえば、馴染みのある方も多いだろう。
さて、交易の積み荷には、富だけではなく疫病もまた含まれていたのであった。ペストである。
厳密な史実かはともかく、伝染病で亡くなった兵士の遺体を包囲した街に投げ込むといった生物兵器のような逸話や、黒海からイタリアまでの長期の航行の中で船員が次々に罹患して死に至り、やっとの思いで故郷に帰り着いた生存者が次々に疫病を広めてしまうなど、様々な逸話が伝わる。
1403年にヴェネツィアに世界最初の隔離病院ができると、地中海に40日間隔離のシステムが広まっていった。
これが英語やフランス語の「隔離、検疫」の語源となったのである。
詳しくは同書を参照されたい。特に第5章「ロシア帝国と黒海」では、18世紀のフランス・マルセイユ港の検疫システムが紹介される。
その中では、ある地域から到来した船については40日間の完全隔離に加えて3週間の積み荷の天日干しが要求されたという逸話を紹介した。
船舶は古より疫病と深い関わりがある。そして、一度大規模な流行が発生すると、途中で食い止めることは著しく難しい上に、次々に範囲を広げていく。人類は多大な犠牲を払って、伝染病の伝播を阻止するための闘いを長い時間をかけて行ってきたのであった。
グローバル化のもたらす危険性
筆者を含めて、これまで、空港の検疫など気にも留めなかった旅行者がほとんどだと思う。新型コロナのもたらした1つの警鐘は、月並みであるが、グローバル化に伴う危険性にあるのではないだろうか。
牽強付会ではあるが、ジョージアの自然ワインについて記すときに、地元伝来の固有種や固有の作り方、あるいは固有の歴史というものを意識して記した。
新型コロナに伴う混乱は、丁寧な物作りや飲食の技法、密なコミュニケーションに基づく伝統的な生活様式を徹底的に破壊する恐れがある。緊急対応でコミュニケーションが厳格に制限される中でこそ、その大切さを心の中では忘れないようにしたい。
グローバル化のもたらした恩恵を享受しつつも、また、ウイルスとの戦いに世界的な連携が何よりも大切であることを前提にしつつも、世界を一様に覆い尽くそうとする新型コロナの脅威とそのインパクトについて、今後真剣に考えていかなくてはならないだろう。