映画「三島由紀夫vs東大全共闘 50年目の真実」 知られざるポイントを専門家が解説

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天皇への屈折した感情

 三島は天皇についての個人的な体験も打ち明けた。

〈こんなことを言うと、揚げ足をとられるから言いたくないのだけれども、ひとつ個人的な感想を聞いてください。というのはだね、僕らは戦争中に生れた人間でね、こういうところに陛下(昭和天皇)が坐っておられて、三時間全然微動もしない姿を見ている。とにかく三時間、木像のごとく全然微動もしない、卒業式で。そういう天皇から私は時計をもらった。そういう個人的な恩顧があるんだな。こんなことを言いたくないよ、俺は。(笑)言いたくないけれどね、人間の個人的な歴史の中でそんなことがあるんだ。そしてそれがどうしても俺の中で否定できないのだ。それはとてもご立派だった。そのときの天皇は。〉

 所謂「人間宣言」を発した昭和天皇を『英靈の聲』で徹底批判した三島のアンビバレントな感情がここに表出している。この件は先に引いた「天皇と諸君が一言言ってくれれば、私は喜んで諸君と手をつなぐのに」と共に討論会での重要な三島の発言である。

天皇臨席の真偽

 先の大戦末期の多忙な最中に天皇は学習院の三島の卒業式に臨席(臨御)した、しかも3時間もいたのだろうか? 私が調べたところ事実は異なっていた。学習院の教師が卒業式について次のように日記に残していることを発見した。

〈昭和一九年九月九日(土)晴 今日は高等科卒業式。九時三十分御差遣[おさしつかい](久邇[くに])宮朝融[あさあきら]王殿下御着というので、職員、学生門内に堵して御着を待つ。 
・・・御下賜品拝受者平岡公威(文科)、何某、何某(理科)。十時三十分御差遣宮殿下を奉送申上げ、・・・(『清水文雄「戦中日記」 : 文学・教育・時局』笠間書院)〉

 “御差遣”とは天皇の名代である。清水文雄は平岡公威少年を“作家・三島由紀夫”として孵化させた恩師である。ようやく出た『昭和天皇実録』にも天皇が当日外出した記録はない。天皇は三島の卒業式に臨席(臨御)しなかったと考えて間違いない。三島が成績優等者として恩賜の時計を享けたのは天皇の代理の宮様からだったのだ。「そういう天皇から宮様を経て私は時計をもらった」と言っていれば、臨御があったとの誤解が生じることはなかっただろう。

 天皇が学習院の卒業式に臨御したのは、三島の在学中では、昭和9年、12年、16年の3回だった。それぞれ1時間程度じっと身じろぎせずにいたのだろう。その天皇の姿が三島少年の心に強く焼きつき、時間を合算して、「3時間」と言わせたのだろうか。

封切り初日

 映画に登場し討論会、それから一年半後の「三島事件」を振り返っている「楯の会」の元隊員たちは70歳代に入っている。映画には半世紀前に彼らが三島と自衛隊の駐屯地を駆けている動画が挿入されていた。まだ元気そうだが当然彼らの容姿はその時から変化している。一方この映画の封切り初日に、日比谷のシネコンに現われた元隊員(三島から遺書を受け取った唯一の隊員)は杖を突き介添が付いていた。この討論会や三島由紀夫の死から彼らが経た星霜を感じた。

 私が観た回の200席のスペースは満席だった。戦後史における貴重な、観るたびに発見のあるドキュメンタリーなので、もう一度観たいと思っている。今般のコロナ・パンデミック騒動で、週末は上映館が閉鎖されるが平日は昼間の回のみやっている。見逃さないよう出かけるつもりだ。

西法太郎(作家)
昭和31(1956)年長野県生まれ。東大法学部卒。総合商社勤務先を経て文筆業に入る。著書は『三島由紀夫は一○代をどう生きたか』他。

週刊新潮WEB取材班編集

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