伝統の早慶戦、初戦は明治36年11月、今も残る早大主将が書いた挑戦状

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にっぽん野球事始――清水一利(8)

 現在、野球は日本でもっとも人気があり、もっとも盛んに行われているスポーツだ。上はプロ野球から下は小学生の草野球まで、さらには女子野球もあり、まさに老若男女、誰からも愛されているスポーツとなっている。それが野球である。21世紀のいま、野球こそが相撲や柔道に代わる日本の国技となったといっても決して過言ではないだろう。そんな野球は、いつどのようにして日本に伝わり、どんな道をたどっていまに至る進化を遂げてきたのだろうか? この連載では、明治以来からの“野球の進化”の歩みを紐解きながら、話を進めていく。今回は第8回目だ。

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 いまや野球のみならず、ラグビーやサッカー、レガッタなどのスポーツはもちろん、スポーツ以外でも両校が対決する時に必ず使われる早慶戦のルーツは“野球の早慶戦”にある。その記念すべき第1回早慶戦が行われたのは1903(明治36)年11月21日、場所は東京・三田綱町に完成したばかりの慶應野球部の専用グラウンドだった。というと、読者の皆さんは、いかにもいまどきの素晴らしい野球場を想像してしまうかもしれない。

 しかし、その時の慶應野球部専用グラウンドは、もともと竹藪だったところをただ単に整地しただけ。観戦のためのスタンドはもちろん、外野のフェンスもないという単なる空き地のようなグラウンドとはいえない代物だったという。

 そもそも、この両校が対戦するきっかけとなったのが、試合のわずか2週間ほど前の11月5日に早稲田から慶應に送られた1通の書状だった。

 そこには、

「拝啓仕候陳者貴部益御隆盛之段斯道の為奉加候 弊部依然として不振、従ふて選手皆幼稚を免れす候に就きては近日の中、御教示にあづかり以て大に学ぶ所あらば素志此上も無く候。貴部の御都合は如何に候ふべき哉、勝手ながら大至急御返翰被下度、御承知の上は委員を指向けグラウンド、審判官の事など万々打合せ仕るべく此段得貴意候也。 早稲田大学野球部委員拝 十一月五日 慶應義塾野球部委員御中」

 とあり、現代文に訳せば、

「慶應は大いに栄えていますが、わが部は依然として振るわず、選手は稚拙です。ついては近日中に試合をしていただき、大いに学びたい。ご都合はいかがでしょうか? もし承知していただけるというのであれば、委員を差し向けますので、グラウンドや審判のことなどをお打ち合わせいたしましょう」

 と、自分たちより9年も早く創部した慶應に敬意を表し、「ぜひ一度お手合わせを願いたい」という早稲田からの試合の申し込みとなっている。

 これに対して、慶應は手紙を受け取ってからわずか3日後の8日には、「承知した。貴校と当校はぜひとも対戦すべきである」との返事を送り、早稲田の申し出を受け入れることを承知している。

 この早稲田から慶應への挑戦状は、いまでも現物が三田キャンパス内の慶應義塾福澤研究センターで大切に保存されているが、その原文を書き、自ら慶應側へ届けに行ったのが早稲田主将の橋戸信である。橋戸は青山中学から東京専門学校に入学するとすぐさま野球部に入部。青山中学に在籍していたころ慶應の練習に参加していたため、慶應の選手たちと顔なじみであったことから橋戸が早慶戦のアイデアを考え、慶應サイドに打診したというのが現在の通説となっている。

 また、卒業後に東京日日新聞の記者となった橋戸は「頑鉄」のペンネームで健筆をふるうとともに、1927(昭和2)年に第1回大会が開催された、各都市の代表チームが覇を競う都市対抗野球大会のシステムを考案し、実現に向けて奔走したことでもよく知られている。

 橋戸は、その功績を称えられて1936(昭和11)年、58歳の若さで没した後、大会の最優秀選手に与える賞として「橋戸賞」が設置されたほか、1959(昭和34年)に創設された野球殿堂では特別表彰により第1回の殿堂入りを果たしている。

 早慶戦と都市対抗野球という現在も続く野球界のビッグイベントを2つも立ち上げた橋戸。彼もまた、日本の野球史を語るうえでいつまでも忘れることのできない1人といってもいいだろう。

【つづく】

清水一利(しみず・かずとし)
1955年生まれ。フリーライター。PR会社勤務を経て、編集プロダクションを主宰。著書に「『東北のハワイ』は、なぜV字回復したのか スパリゾートハワイアンズの奇跡」(集英社新書)「SOS!500人を救え!~3.11石巻市立病院の5日間」(三一書房)など。

週刊新潮WEB取材班編集

2020年4月4日掲載

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