追悼・志村けんさん 最後まで貫いた“お笑いのプロフェッショナル”という矜持

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 タレントの志村けんさん(本名・志村康徳さん)が、新型コロナウイルス感染による肺炎によって、3月29日夜に逝去した。70歳だった。芸能生活48年目での非業の死。昭和世代も平成世代も悲しみに包まれている。志村さんの存在とは日本人にとって何だったのか。

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「志村さんと共に歩んで来た所属事務所の幹部たちは悲嘆に暮れています。逝去が大ショックである上、最期までみんなで本人の側にいてあげたかったのに、新型コロナがそれを許しませんでしたから」(志村さんを知る芸能関係者)

 昭和、平成、令和とお笑い界をリードしてきた志村さんが、突然の死を迎えた。

 お笑い芸人がワイドショーのコメンテーターとなり、政治や社会について意見する時代になったが、志村さんはそんなことを絶対にしない人だった。お笑いのプロフェッショナルだという矜持があったからに違いない。

 志村さんはあるインタビューで、「お笑いの仕事をしていなかったら、何をしていた?」と問われると、「そんな根性でやってません」と言い返した。退路を断ってお笑いに取り組んでいた。

 トークバラエティーにも批判的だった。

「とにかくみんなネタをやらないよね。お笑いがトークバラエティーばかりになっちゃって。テレビ局だって、必死にアイデア練って時間もカネもかかるコントをやるより、いすを並べたセットでトークやってる方が楽って発想。ロケで延々とモノ食ってたりさ。その場でパーッと楽しくというのも芸だけど、人の記憶には残らない」(2004年1月4日付、日刊スポーツ)

 1968年、東京都立久留米高校在学中にザ・ドリフターズへの弟子入りを志願し、卒業と同時にバンドボーイに。74年に故・荒井注さんの代わりに正式メンバーになった。ほかにも有力な弟子がいたが、リーダーだった故・いかりや長介さんが志村さんを高く買い、抜擢した。

 いかりやさんは慧眼だった。TBS「8時だョ!全員集合」(1969~85)が16年間も超人気番組であり続けたのは、志村さんの貢献が極めて大きい。76年には出身地・東京都東村山市の「東村山音頭」を爆発的に流行らせ、「カラスの勝手でしょ」などの流行語も次々と生んだ。「全員集合」は志村けんさんが目指す「人の記憶には残る」番組になった。

 なぜ、志村さんの芸が大衆を引き付けたかというと、本人が勉強家だったからにほかならないだろう。その勤勉ぶりはつとに知られ、「世間は何を求めているのか?」を常に考えていた。本を片っ端から読み、音楽もジャンルを問わずに聞いていた。

「天才的であったものの、とにかく努力家でした。芸につながるものを貪欲に求めていた」(元テレビ朝日取締役制作局長で「加トちゃんケンちゃんスペシャル」などをプロデュースした皇達也氏)

 それでいてバカをやり続けた点も志村さんの偉大なところだろう。「志村けんのバカ殿様」(フジテレビ系列)は1986年から今年1月まで放送された。他界しなかったら、もっと続いていたはずだ。

 ところが、そんな志村さんでもバカをやることに迷いが生じた時期があるらしく、先輩芸人で、「バカ殿」で共演していた故・東八郎さんに「どうして、そんなにバカができるのか?」と聞いたことがあった。

 すると東さんは「文化人になろうと思った段階でコメディアンの命は終わり。いつまでもバカをやってればいいんだよ」と答えたという。

 志村さんは元浅草芸人である東さんを尊敬しており、東さんも志村さんをかわいがって、芸者遊びなどを教えた。2人で東京・向島などへ足を運んだ。それは正に芸の肥やしだった。

 志村さんが死の直前まで酒場を好んだのも芸のためにほかならず、千鳥の大悟(40)ら後輩芸人をかわいがったのは東さんを見習ったのだろう。志村さんは昭和の正統派芸人の系譜を受け継ぐ数少ない人だった。

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