「投票強行」でも確定せず「フランス地方選」新型コロナ禍の大混乱

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「COVID-19ウイルスの流行と闘うために1000人以上のすべての集会を禁止するという政府の決定により、木曜日の夜にジャピー体育館で予定されていたアンヌ・イダルゴの集会は中止します」

 パリ市長選挙に出馬中の現職イダルゴ候補の選挙本部から、メールが届いた。予定の木曜日、すなわち3月12日の直前である。

 フランスの選挙は通常、街宣車もなく街頭演説もない。3月15日の第1回投票を控えた最後の集会、ぜひ取材せねばと思っていたのだが。

8人中3人が注目を集めた「パリ市長選」

 フランスでは「市」「町」「村」の区別はなく、すべて「コミューン」とよぶ。1982年の地方分権で大きく変わったが、それまでは、フランス革命後の中央集権体制の中で唯一自治権を持っていた公共団体であった。

 議員と首長の選挙は別ではなく、まず議員を選び、その互選で首長(議長兼任)が選ばれる。大都市では、首長は、議員の中から分野ごとの議長を選んで責任者とする。議院内閣制の地域政府である。

 任期は6年で、選挙は全国一斉に行われる。

 人口1000人超のコミューンでは比例代表2回投票制で、第1回で過半数をとれば当選。そうでなければ、投票数の10%以上を獲得した候補者リストが第2回の投票対象となる。そこで第1位になったリストに無条件に過半数が与えられたうえで、議席が分配される。比例リストのトップが首長候補というわけだ。

 コミューンは全国で約3万5000あり、90%が人口2000人以下である。

 その中でもやはりパリは別格だ。

 人口も唯一200万人を超える都市であり、そしてなにより首都である。日本ではよく「花のパリ」と言うが、フランスでは「光の町」といわれ、燦然と輝いている。

 中央集権時代は権力と文化の集中で「パリと地方の砂漠」と言われていた。40年前の大胆な地方分権で様相はガラリと変わったが、それでも、パリ市長が魅力的なポストであることには変わらない。

 19世紀後半から国の直轄領だったが、1977年に自治が復活し、後に大統領になるジャック・シラク氏が市長になった。2001年の選挙で社会党のベルトラン・ドラノエ氏が当選し、イダルゴ氏が前回その後を継いだ。

 今回、8人が立候補したが、社会党・共産党推薦の現職イダルゴ、共和党・中道右派推薦の元司法相ラシダ・ダティ、そしてマクロン与党の共和国前進の前保健相アニエス・ビュザンの各氏が有力視されていた。

できなかった「選挙延期」

 そこににわかに、「新型コロナウイルス」が押し寄せてきた。このウイルスはあるとき急に「オーバーシュート」(感染爆発)するが、それが始まったのだった。

 イダルゴ候補の集会が予定されていた3月12日の夜8時、エマニュエル・マクロン大統領が、新型コロナの流行が始まって以来初めてのテレビ演説を行った。

 今までのようにクラスターのある特定の地方だけではなく、全国一斉に休校し、70歳以上の人の外出を控えるよう求めた。子供は無症状で感染することが多く、高齢者は重症になりやすい。友達からウイルスをもらい、老人にうつす連鎖をたちきるのだ、という。

 このときマクロン大統領はギリギリまで、3日後の第1回投票を実施するかどうか迷っていた。

 この1週間前、野党の多い全国市町村会は、

「延期などもってのほか」

 と強い調子でクギを刺していた。

 3月9日にはダティ候補が集会を開き、師匠のニコラ・サルコジ元大統領が応援に駆け付けて盛り上げた。

 こうした状況で選挙延期を発表したら、また「マクロンは人の話を聞かない」「独裁者だ」という誹りをうけることは必至であった。

 だが、オーバーシュートになると文字通り時々刻々と事態が変わる。

 3月12日には595人だった新規感染者数が、13日には800人へと増えた。

 だが、選挙の担当大臣であるクリストフ・カスタネール内相は、

「投票所には10~12時間の間に600人が来る。すなわち1時間に30~40人しかいないので、十分安全な間隔はとれる」

 と表明。また野党議員も、

「道ですれ違ったり、町のパン屋に並ぶよりも危険性はない」

 と、予定通りの実施を支持していた。

 14日には、感染者は839人と増えた。その夜、エドゥアール・フィリップ首相は、「生活に不可欠な店」を除くあらゆる施設を閉鎖すると発表した。

 ただし、第1回投票は予定通り行う。殺菌ジェルやアルコールを置く、人が1メートル以内に近づかないようにする、関係者はマスクをする、ふだんは投票所備え付けをつかう署名用のボールペンも持参する、といった措置で大丈夫だというのである。

「衛生戦争」に「宣戦布告」

 そして15日、投票は予定通りに行われた。投票所には入り口から1メートルごとにテープが張ってあり、距離を保って列をなすよう準備されていた。

 投票率は、全国平均で前回2014年の63.55%から44.66%に落ちた。パリ市は前回比15ポイント下落の41.51%だった。

 テレビ各局は予定通り選挙特番を組んだ。

 だが、おかしな放送だった。

 人の集まりは禁止だから各党の本部はガラガラで、選挙事務所からの当選者の喜びの声もない。いつもなら各党の代表が喧々轟轟とやるのだが、話題は、次の日曜日に第2回投票を行うべきか否かばかり。そしてすぐに、新型コロナの今後についての話になる。

 この日も、新しい患者が923人、死者が36人出た。

 なお、パリの開票結果は、イダルゴ候補が29.33%、ダティ候補22.72%、ビュザン候補は17.26%で第3位だった。事前の世論調査では、イダルゴ候補とダティ候補が鍔迫り合いしているとされていただけに、意外な大差とみられた。

 第1回と第2回投票の間にリストを組み換えられるので、本来ならば、翌朝から第2回投票へ向けて4位以下の取り込みなど様々な思惑が交錯してうごめくのだが、16日朝に限ってはそれどころではない。3候補とも競って選挙運動を停止した。

 新たに1210人患者が増えた。死者累計148人である。

 その夜、マクロン大統領がテレビ演説して、翌17日正午からの外出禁止を発表。文字通りの「宣戦布告」をした。

 目に見えない、至る所に移動する敵に対する「衛生戦争」である。

 そして、第2回投票の延期を発表した。

 右から左まで各党、マスコミ、労働組合、経営者団体こぞって賛同した。

ビュザン前保健相の「告発」

 ところが、この団結に水を差す事件が、あろうことか、大統領の身内からおきた。

 17日正午、外出禁止令が発効して間もなく発売された『ルモンド』で、ビュザン候補が、

「すべてを止めるべきだった、選挙は仮面舞踏会だった」

 と語ったのである。新型コロナの流行で選挙などしている場合ではないとわかっていたのに、皆仮面をかぶって素知らぬ顔をして投票を強行した、というのだ。

 もともと、与党共和国前進の公認候補はマクロン大統領の側近のバンジャマン・グリボー氏であった。ところが、わいせつ動画流出のスキャンダルのため1カ月前の2月14日に急遽辞退、ビュザン氏が保健相の職を辞任して出馬したのであった。

「私が(保健)省を去ったとき、津波が目前に迫っていることを知っていたので泣きました。私は選挙が行われないことを知りながら去りました」

 とビュザン候補は言う。

「初めから私は、1つのことしか考えませんでした。コロナウイルスです。すべてを止めるべきでした、それは仮面舞踏会でした。最後の週は悪夢でした。私はすべての集会で怖かった。 私は心ここにあらずでこの選挙戦を生きました」

 では、なぜ立候補要請をうけたのか? との問いに、別に大統領などから圧力をうけたわけではなく、「パリ市長は素晴らしい役職」だから、そして、「共和国前進を困難に陥らせてはならない」との思いからだったという。

 さらに、爆弾発言をした。

「私が中国で何が起こっているのかを知ったのは、12月20日です。英語のブログで奇妙な肺炎が詳しく説明されたのを見ました。私は医政局長に警告しました。1月11日、私は大統領に状況についてのメッセージを送りました。 1月30日に、エドゥアール・フィリップに選挙はおそらく行えないと警告しました」

 ところが、聞き入れられなかったというのである。

 当然、野党は重大な事実を隠ぺいしていたと一斉に攻撃した。

 のみならず、仲間の共和国前進党員からも厳しい声があがった。

「選挙後のうつ状態になりたければなればいい、だからといって無茶苦茶を言っていいというわけではない」

「もしパリで第1位になっていたらこんなことを言ったか」

「前大臣の狂ったわがまま」

「アンフェア」――。

 政府関係者は、

「ビュザンが大臣のときにコロナウイルスの危険について警告していたというのはうそだ。彼女は、リスクはないと言っていた」

 と言う。

 たしかに、ビュザン保健相(当時)は、

「住民の間にコロナウイルスが広がるリスクは非常に低い 」

と1月24日に発言していた。記事の中で、彼女はそのことを認め、

「言うべきではなかった」

 と後悔しているという。

 1月中に1名死亡したが、ビュザン氏が出馬したころには、患者数は11名で全員ほぼ治っていた。だから、保健大臣の座を捨てることに対して大きな批判はなかった。

 その後急激に患者が増え、医師でもあるビュザン氏は良心の呵責にさいなまれたのであろう。

 混乱を極めた中でどうにか強行された第1回投票で、約3万5000のコミューン(市町村)のうち、約3万(無投票を除く)で当選者が決まった。

 次は首長を決める互選だが、衛生上の理由から、」議会そのものの開会が禁止になってしまっている。

 いまは挙国一致で「衛生戦争」を戦っている。だが、その底には、フランス政治の混沌のマグマが籠っている。

広岡裕児
1954年、川崎市生まれ。大阪外国語大学フランス語科卒。パリ第三大学(ソルボンヌ・ヌーベル)留学後、フランス在住。フリージャーナリストおよびシンクタンクの一員として、パリ郊外の自治体プロジェクトをはじめ、さまざまな業務・研究報告・通訳・翻訳に携わる。代表作に『エコノミストには絶対分からないEU危機』(文藝春秋社)、『皇族』(中央公論新社)、『EU騒乱―テロと右傾化の次に来るもの―』(新潮選書)ほか。

Foresight 2020年3月27日掲載

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