背番号「19」に込めた野村克也氏の特別な想いとは
野村克也監督が田中将大選手に謝罪したわけ
〈プロ入りして最初に付けられた背番号は、60。嫌だったね。今でも、「大きい背番号は、下手」みたいに見られる風潮があるじゃないか。しかも当時は、数字の上に選手の名前が英文字で入っていたりはしない。ただの60だ。文字通り、数字イコール選手。なおかつ、この数字は西鉄の三原脩監督がつけていたものだから、私は2軍戦で地方に行った時、観客にこう言われたことがある。「このチームでは、あいつが監督なのか?」。当時から少々の老け顔だったのかも知れないが、なんとも情ない話だよ〉
これは、2月11日に亡くなった野村克也氏が、最新刊『野村克也の「人を動かす言葉」』(新潮社刊)の中で明かしている、背番号に関する思い出である。配球や戦術、選手起用など、野球の奥深さについて多く語ってきた野村氏だが、背番号にまつわるエピソードも実に興味深い(以下〈〉内引用は同書より)
ヤクルト監督時代、背番号を「73」にした理由
野村氏が南海ホークスにテスト生として入団したのは1954年のこと。3年目に正捕手として1軍に定着すると、背番号は「19」に変わった。「19といえば野村」。ファンにそう思ってもらえるよう、より練習に打ち込み、やがて選手兼任監督まで上り詰めることになるのだが、南海時代に、こんな出来事があったという。
〈私は現役時代、ある占い師にこう言われたことがある。「野村さんのラッキーナンバーは、10ですよ」。「だったら、背番号も、10にした方がいいですか?」。「いえ、足して10になる数字も含みますから、今の19は良い数字です」。なるほどと思ったね。だから、ヤクルト監督時代の背番号は、「73」にしたんだ。しかし、それ以降は風向きが変わったかも知れんな。1999年の阪神の監督になる時は、「82」にしたんだよ。「73」は、もうヤクルトで運を使い果たした感じがしてな。結果はまあ、ご存知の通り〉
そこで、2006年に楽天の監督に就任した時は「19」に戻した。一番のラッキーナンバーであるからだ。その効果はてきめんだった。その年のドラフトで、田中将大(現ニューヨーク・ヤンキース)を獲得するのである。その際、野村氏は「人生は縁。弱い球団だから、やりがいがある。楽天に行って(俺が)強くしてやろうという意気込みを持って来て下さい」というメッセージを田中に送っている。
田中将大に謝罪
〈マーくんが1年目を終えた後、私は彼と話をした。「おい、来年はどうするんだ」。「直球で空振り三振を取れる投手になりたいです」。「いいじゃないか」。私も私で、この時、間違っていた。当時のマーくんは19歳。まだまだ球が速くなると思い、それを容認したのだ。夢があると思ったんだな。だが、投手はスピードを求めすぎると、フォームを崩してしまう。どうしても力みが出るからね〉
結果、田中の2年目は1桁勝利に終わる。その年の暮れ、野村氏は田中に謝罪すると共に、氏の持論である「投手の原点能力」を磨くことを説いた。「投手の原点能力」とは、バッターから最も遠い、外角低めにストライクを投げられること。150キロのストレートをど真ん中に放るより、130キロでも外角低めでストライクを取る方が危険を回避できるのだという。
〈以降のマーくんは、コントロール、もっと言えばこの「原点能力」に磨きをかけるようになった。私の(監督通算)1500勝目で投げてくれたのはマーくんだったし、しかも完投で、ウイニングボールを手渡してくれたな〉
2人の「19番」
今や、ヤンキースのエース級になっている田中だが、その背中には、自分で決めたという「19」という背番号がある。そして、野村氏の古巣である南海ホークス(現福岡ソフトバンクホークス)でも、2020年シーズン、大きな動きがあった。
〈「19」番といえば、2020年シーズンから、福岡ソフトバンクホークスの捕手、甲斐拓也が背負うことになった。1977年までの私以来、ホークスでは43年ぶりの捕手の「19番」だ。甲斐も今やパ・リーグだけでなく、球界を代表する捕手になりつつある。なんでも、高校時代から私の著書を読んでくれていたそうだ。大いに期待しているよ〉
天国の野村氏は、2人の「19番」をどんな思いで見つめているのだろう。