ウイルス禍の「経済的恐怖」に通じる:青木雄二『ナニワ金融道』 独選「大人の必読マンガ」案内(21)
新型コロナウイルスの感染拡大は、世界保健機関(WHO)がパンデミック(世界的大流行)を宣言する事態に発展した。
本コラムでは前回、細菌やウイルスに関する基礎テキストとして『もやしもん』(講談社)をご紹介するとともに、新型ウイルスについてこんな見解を示した。
・すでに完全な「封じ込め」は難しい
・医療リソースの枯渇を回避し、治療法とワクチンの開発の時間稼ぎをするべきだ
・難しいのは感染抑制と経済的ダメージのバランスの取り方だ
・経済的打撃は、ウイルス禍と同じように人の生死を左右する
今回はこの経済的なダメージについて考える必読書として、『ナニワ金融道』(講談社)を改めて推したい。
株式相場の暴落や各国中央銀行の緊急対策といったニュースに目が向かいがちだが、今こそそんな「空中戦」とは違った世界、日本経済の土台である中小・零細企業の現実に目を向けるべきだと考えるからだ。
「ダークサイド金融マンガ」の金字塔
『ナニワ金融道』の連載は1990年から1997年までと、バブル経済の最終局面から崩壊期に重なっている。
大阪を舞台に貸金業者、いわゆる「街金」の実態を描いた本作は、『闇金ウシジマくん』(小学館)など現在まで続く、金融のダークサイドを描くマンガの嚆矢にして、内容と深みにおいて同ジャンル内の最高傑作の地位を保つ金字塔だ。
作品の凄みを支えているのは、カリカチュアライズされてはいるものの、中小・零細企業の実態の冷徹な描写だ。
物語は、勤務先の印刷工場が手形事故で倒産して職を失った主人公・灰原達之が、「金を貸す側」への転身を決心するところから始まる。灰原はヤクザまがいの社員たちが日々、貸金の回収のため「追い込み」をかける「帝国金融」に滑り込み、そこで様々な案件を手掛けるうち、金融マンとして、人間として成長していく。
資金繰りに追われる零細企業の経営者たち。
登記簿を偽造して夜逃げ資金を引っ張る地面師。
親の借金がもとで「風呂に沈められる」女性。
色仕掛けにかかって連帯保証人の判を押して転落する公務員。
取り込み詐欺に手を染める会社員。
商品先物に手を出して職を追われる教師。
バブル崩壊で破綻に追い込まれる地上げ屋。
「トイチ(10日で1割の金利)」の闇金やマルチ商法の親玉など、登場人物やエピソードは、さながら「人生の落とし穴」のカタログのようだ。
理不尽かつ危うい位置に立つ「弱者」
闇金や「ケツもち」のヤクザなどを含む「日本経済の下層構造」をマンガの形にしてみせた作者・青木雄二は、数年の会社勤めの後、様々な職を転々とし、自らデザイン会社も興している。この経験が細部のリアリティを裏打ちしているのは疑いない。
特に、中小・零細企業の「体温」が伝わってくるような描写には、何度再読しても唸らされる。そこには銀行どころか信用金庫レベルにすらアクセスできない、「売り上げが止まったら即座に行き詰まる」というシビアな現実がある。
その厳しい現実は、採用直後の灰原に対して帝国金融社長の金畑金三が吐くセリフに集約されている。
「いったん取引を開始すれば末ながく それを望むのはどこの企業も皆同じだ……」
「だが、それは我々には無理な注文というもんなんや」
「皆1~2年のうちに必ず消えて行く つまり倒産や」
高利貸しに手を出すような状況に追い込まれている時点で、零細企業に復活の芽などない、というわけだ。
ここで少々私事に及ぶのをお許しいただきたい。
私の両親は、店舗の内外装を含む工事を請け負う「看板屋」を営んでいた。文字通り、吹けば飛ぶような零細企業で、実際、私が小学生の時に手形事故に巻き込まれて倒産の憂き目に合った。幸い、夜逃げまでは追い込まれなかったが、膨大な借金が残った。
所詮、子どもの目で垣間見ただけだが、経営が不安定な中小・零細企業という存在は、政治家や大企業のサラリーマンからは想像もつかないような、理不尽かつ危うい位置に立つ「弱者」だ。
口約束で仕事を受け、引き渡し後に施主から何割もの値引きを要求される。
当てにしていた入金が遅れ、あげくには「半金半手(半分現金・半分手形)」を押し付けられ、「街金」に手形を割ってもらう。小切手は「先日付(さきひづけ)」が当たり前。
看板を取り付けた店舗のオープン当日に集金に行くと、店を施主から買い取ったという「善意の第三者」が陣取っていて工事代金を取りはぐれる。
資金繰りに苦しむ両親の姿の記憶は、四半世紀近い経済記者経験に勝るとも劣らないほど、私の経済観の土台になっている。
リーマンショックの対処より難題
今は手形による決済は大幅に減っており、『ナニワ金融道』の時代と少し事情は変わっているだろう。
だが、安定した借入先がなく、「あてにしていたお金が入らない」だけで、すぐに行き詰まる企業やフリーランスの働き手が大量にいる実態は変わっていない。「入り」が止まっても、給与や取引先の支払いは待ってくれない。資金繰りが滞れば信用が失われ、早晩、事業は破綻する。
『ナニワ金融道』が描く世界は、霞が関の高級官僚や上場企業のサラリーマンなどからは「底辺」に見えるかもしれない。
だが、社数ベースなら日本企業の99%以上は中小・零細であり、それらは雇用者の約7割を支えている。地方の小都市ならその割合は9割を超える。
新型コロナの感染拡大は、この日本経済の土台を直撃している。
そして、このダメージを食い止めることは、ある意味、2008年の金融危機への対処より難題だ。リーマンショックは、メガバンクなど金融システムの中核に潤沢な資金を流し込み、信用不安を抑えれば鎮火できた。
だが、中小・零細企業やフリーランスの中でも、手元資金に余裕のない「弱者」ほど、金融へのアクセスは限られている。資金を流し込もうにも、パイプがないのだ。
人体に例えると、現状、心臓や大動脈など主要な循環器系に問題はない。一方、「需要の蒸発」によって、末端の組織は「壊死」が始まっている。毛細血管のようなか細いパイプでは、「消えた売り上げ」を補填するほどの資金を流し込めない。「弱者」の体力の乏しさを考えれば、これが時間との戦いなのは明らかだろう。
外出自粛やイベント中止といった対策は防疫上、必要なのだろう。だが、バランスを失すれば、経済的ダメージはウイルス禍以上の人命を危険にさらしかねない。
狂気と人情のごった煮
ここまでは、現在の状況に照らして、「日本経済の下層構造を知るテキスト」という側面を強調してきた。
だが、それは『ナニワ金融道』という作品世界の骨組みでしかない。
本作をマンガ史に残る傑作としているのは、登場人物たちの魅力と、舞台である大阪という街の空気だ。ほぼすべての名作に通じる「あの世界で、あの人たちに再会したい」という気持ちが何年かに1度、湧き上がってくる。
本作に登場するのは、一癖も二癖もある、とことん人間臭いキャラクターだ。主人公灰原が「無色」に近い印象なほかは、そろいもそろって極彩色の存在感を放っている。
その強烈なキャラクターが、弱肉強食の世界で欲にまみれてもがく。弱き者は食いものにされ、「食う側」の強者もまた金銭という魔物にとりつかれ、うっすらと狂気を帯びている。
大阪の街の描写も、リアルなようでいて、過剰な猥雑さをはらむ異世界のようだ。スクリーントーンをほとんど使わず、手書きによる偏執的な描き込みで「白さ」を排除した独特の画風も相まって、まるで奇妙なパラレルワールドのような空気が漂う。
この画風は「食わず嫌い」の読者を遠ざけてしまう嫌いがあるのは否めない。だが、この濃い絵柄で、絵柄以上に濃いキャラクターたちが描かれるからこそ、唯一無二の味わいが出ているのもまた確かだ。
そして、その濃厚な狂気の中に、ごく自然に、温かい人の情が差し挟まれる。この狂気と人情のごった煮が、独特の『ナニワ金融道』ワールドを形作っている。
私のお気に入りの登場人物は、灰原の指導役にして「バディ」でもある元木と、全身に刺青を彫りこんだパートナーの市村朱美だ。元木のドライな地頭の良さと胆力、朱美の人間観察力と灰原に向ける愛情が、灰原という受け身型の主人公の成長物語というストーリーラインを駆動している。
エピソードごとに出てくる「ちょい役」にも忘れがたい印象を残すキャラクターやシーンは多い。
横領で地位を失った教頭が童謡を歌い上げる場面や、夜逃げする夫婦が丁寧に安アパートの掃除に勤しむ姿、マルチ商法の親玉が本音を吐きだす豹変の瞬間、航空券の安売り商売で再起を誓う元地上げ屋を支える妻、落ちぶれ果てたアル中ながらキャリア官僚をも唸らせる裏世界の知恵を見せつける老人など、息遣いまで伝わるような存在感がある。
各エピソードのプロットも秀逸で、コンゲームものとして完成度は高い。
「されどお金」を知ったうえで
以前、私は当サイトで『人生に必要な知恵はすべて「マンガ』で学んでね』と題して、マンガを教育インフラとして利用する高井家流のシステムをご紹介した。
『ナニワ金融道』は本来、「大人の階段」の最終ステップとして娘たちにぜひ読んでほしいのだが、どうにも絵柄を受け付けられないようで、手に取ってもらえない。
そうした懸念もあったので、金融リテラシーを高めてもらうため、よりマイルドな「おカネの教室」(『おカネの教室 僕らがおかしなクラブで学んだ秘密』としてインプレスより単行本化)という物語を家庭内連載した面もあった。
それでもまだ、私はいつか、この傑作を娘たちに手に取ってほしいと思っている。この作品に出てくる「落とし穴」を知るだけで、お金にまつわる人生の致命的なトラブルを遠ざける効用は極めて大きいはずだ。未読の方には、ぜひ、人生のリスク管理の指南書としても、ご一読をおすすめする。
最後に本作中、私が一番好きなエピソードを紹介して終わろう。本筋からは外れた部分でネタバレの度合いは小さいのでご容赦願いたい。
タイヤのマルチ商法の実情を探るため内部に入り込んだ朱美はある日、奇妙な女性に出会う。訪問した公団アパートの一室は、あらゆる悪徳商法から押し付けられた怪しげな品々であふれかえっている。「食い物」にされているはずのその女性は、朱美に笑顔でこう語る。
「こうやって家にいるだけで皆さんが福を持ってきてくれはるんですわ。ホンマに毎日感謝しながら一家3人幸せに暮らしてますんや」
帰宅した朱美は灰原に「世の中にあんな人がいてるなんて思わんかったの」と顛末を語り、自分にはその女性をマルチに勧誘できなかったと打ち明ける。「人間の幸せってなんやろなとつくづく考えてしまうわ」とこぼした後、朱美は灰原に告げる。
「アンタかてあの人に金を貸して地獄に落とすことはできへん気がする」
「それが私ら2人がうまくやっていけてる理由やないの」
「アンタには私と同じようにそういう甘さがどっかにあると思うわ」
朱美が言う「甘さ」は、人間らしさと言い換えても良いだろう。
私は経済リテラシーの目標は「たかがお金、されどお金」という言葉に集約されると考えている。日本の教育は「たかがお金」を先に刷り込み過ぎている。お金の怖さと重要性、つまり「されどお金」を知ったうえで、「たかがお金」と言えるようになるべきだ。
お金の落とし穴を避けなければ、人生は渡っていけない。
そして「甘さ」がなければ、人生は生きるに値しない。