多川俊映(興福寺寺務老院)【佐藤優の頂上対決/我々はどう生き残るか】

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溢れる情報の時代に

佐藤 いまはAIやIoTで、データの重要性があちこちで語られています。データがどんどん蓄積されていくのは、「蔵識(ぞうしき)」とも呼ばれる阿頼耶識に通じるものがあります。

多川 唯識によれば、すべてが情報です。心の中であれこれ思うことやイメージすることも、データとして、情報として残ります。意識の中では一瞬で消えたとしても、蓄積されていく。それがその人間を作り出していきます。だからよく「こんな私に誰がした?」と言うけれど、それはもう自分自身でそうしたのであって、誰のせいでもない。

佐藤 それを認識して生きなければなりませんね。

多川 情報の時代と言われ、一方で心の時代と言われています。どちらもそうなのでしょうが、人間は自分に好都合な情報を求めることに必死です。歩いていても端末での情報摂取に余念がない。でもそれは情報の浅瀬をあてもなくさまよっているようなものです。

佐藤 その傾向はどんどん強まっています。

多川 そうなると情報を咀嚼して一つ一つを深く考えることも、味わうこともできない。それでは心は疲れてしまいます。

佐藤 だから、そこそこでいい、という節度も必要になってきますね。

多川 その通りです。仏教のいろいろな考え方のなかで大事なのは「知足(ちそく)」、つまり「足るを知る」ということです。それはある種の穏やかさを生み出します。

佐藤 でも、それが社会からなくなってきている。

多川 私もまだ月に2、3回、東京へ行きます。新幹線で京都から品川まで2時間強です。集中して本を読むのにちょうどいい時間なので、それ以上速くならなくてもいいのですが、そんなことでは技術がダメになる、と言われます。人間のためにあるはずの技術が、人間を置いていっては主客転倒です。科学には「ここでもういい」というある種の「納得」がありませんね。

佐藤 同意します。それは「長生き」も同じです。人生100年時代に向けて、寿命を延ばすことばかりを考えています。実際にこれからバイオテクノロジーの発展で、いくらでも生きられる人と短命で終わる人が出てくる。

多川 iPS細胞は難病の人たちにとってはたいへんな光明ですが、命を延ばすために使うようにもなるでしょう。臓器はパーツになる。すると、人間はなかなか死なない。死なない時代に、死は誰が決定するんでしょうか。やはり本人が決定することになるのでしょうね。

佐藤 すると自殺の権利という問題に突き当たります。

多川 人はある時、もう自分の人生を打ち止めしようと思うでしょう。でも今日そう思っても、明日になったら思いとどまるかもしれない。それを繰り返して、ダラダラダラダラ生きていくことになったら、それは悲劇です。

佐藤 誰しも生への執着は、簡単には捨てられませんからね。

多川 それに、死を追いやっている限り、いまを生きていることが、すごく薄味になります。

佐藤 キリスト教は、現世で永遠に生きるものを嫌います。だから欧米ではドラキュラやゾンビが映画の主題になる。キリスト教が貨幣を嫌うのも、それが死なずにずっと市場の中に残り続けるからです。同じようにデータもなくならない。だからヨーロッパからは「忘れられる権利」が出てきます。これはキリスト教的価値観から必然的に生まれてきたものです。

多川 唯識では、阿頼耶識が輪廻転生の主体となって転がっていく、という考え方をしますが、これはある意味では死なないということですよね。これをヨーロッパの人はどう思うんでしょうか。

佐藤 おそらくは歴史とか民族でつながっているというとらえ方をするでしょうね。個体として考えるのではなくて。

多川 なるほど。

佐藤 キリスト教と仏教を比較してみると、目標がまったく逆に見えます。キリスト教は、究極には神の国に入って永遠の命を得ることを目指します。そこから仏教を見ると、輪廻転生を繰り返し、迷いの世界から抜け出せないことを認めた恐ろしい思想になる。

多川 仏教でも、真理と合体して「不死を得る」という教えはありますよ。

佐藤 そうですか。ただキリスト教の立場からは、「無」や「空」なども恐ろしい概念です。

多川 一方で、輪廻転生もそうですが、物事が変わっていくことも、仏教の前提です。だからあんまり一つのところに拘泥しないことも大切なんですね。

佐藤 万物は流転する、ですね。

多川 ホモ・サピエンスが誕生したのは30万年くらい前でしょう。するとこれから10万年先、20万年先はどうなっているのかと、最近よく考えるんですよ。

佐藤 面白いですね。どうなりますか。

多川 例えば、核のゴミがあるでしょう。あれは10万年間は手つかずにしておくらしい。でも10万年経つ間に、いま私たちが使っている言語がどうなるか、わからないでしょう。「立ち入り禁止」にしても何語で書けばいいのか。それに1万年、2万年経てば、人間だって変化する。

佐藤 私たち日本に住んでいる人間(ホモ・サピエンス)も4万年くらいしか歴史がありません。

多川 だから変化について、うんと寛容にならないと、困ることになるのではないかと思いますね。変化していって当たり前なのです。ただそれが社会を壊してしまわないところで踏みとどまれるか、という問題はあります。どうでしょうね、そこはたぶん、民族とかその社会が持っているポテンシャルにかかっているのではないでしょうか。

多川俊映(たがわしゅんえい) 興福寺寺務老院
1947年奈良市生まれ。父・乗俊は興福寺子院・興善院の住職で、のち興福寺貫首。立命館大学文学部哲学科卒。興福寺に入り、77年「竪義」満行。84年興福寺副貫首、89年に貫首に就任し、南円堂の保存修理、中金堂再建など境内整備を進める。2019年より現職。『唯識入門』『唯識とはなにか』など著書多数。

週刊新潮 2020年3月12日号掲載

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