多川俊映(興福寺寺務老院)【佐藤優の頂上対決/我々はどう生き残るか】
「唯識」とは何か
佐藤 宗派としては南都六宗の中の法相(ほっそう)宗で、その大本山ですが、いま他にはどんなお寺がありますか。
多川 薬師寺、法隆寺の一部、それから京都の清水寺です。全部で4カ寺しかありません。
佐藤 奈良の仏教と京都の仏教はやっぱり雰囲気が違います。京都のお坊さんから見ると、奈良の仏教は理屈っぽい、お坊さんもみんな学者さんだと言いますね。
多川 非常に込み入っているものをやっていますから、そう見えるでしょうね。
佐藤 「唯識(ゆいしき)」ですね。
多川 はい。あらゆる事柄を心の要素に還元して考えようというのが「唯識」です。人間の心は「八識」といって八つの層から生まれてくるという考え方をします。まず表層には眼識(げんしき)、耳識(にしき)、鼻識(びしき)、舌識(ぜつしき)、身識(しんしき)の「前五識」があり、それらからの情報を処理する「意識」がある。ただ「前五識」はその場限りのもので、意識も気絶したり熟睡しているときは途切れてしまう。そこで間断のない潜在的な領域として、さまざまな情報を蓄積する「阿頼耶識(あらやしき)」と、自己に執着して止まない「末那識(まなしき)」を考えます。そうやって重層的に心をとらえていくのです。
佐藤 私は同志社大学の神学部などで教えていますが、学生たちに、心理学なんてつい最近の話だ、日本にはもっと昔から唯識という考え方があり土着化している、心の動きについての研究は、法相宗がプロなんだという話をしています。
多川 それは仏教系の大学でも言ってほしいですね。最近、唯識を学ぶ人が少ないんです(笑)。
佐藤 前に少しお話ししたことがありますが、私が鈴木宗男事件で東京拘置所に512日間、勾留されていたとき、多川先生の『はじめての唯識』(現在は改題して『唯識入門』)を何度も読んだんです。
多川 取り調べさえなければ、読書にとって理想的な環境だとおっしゃっていましたね。
佐藤 ええ。自分の問題に引き寄せて読めますから。何でこんなところに来てしまったのかと日々考えている時に、阿頼耶識と末那識の構造とか、阿頼耶識は価値中立的なのに、末那識を経ると意識が曲がっていってしまうとか、自分の心を考えながら読むことができた。外に出るとあの感覚はなくなります。
多川 阿頼耶識は善悪で言えば、「無記(むき)」、どちらでもありません。「無覆(むぶく)」と言って、覆い、つまりは汚れがない状態です。末那識は、意識下の自己中心性です。よく悪の権化みたいに言われますが、動きは非常に微弱で、自己中心性を絶えず意識に囁きかけて、心を変えていく。
佐藤 キリスト教の側から見ると、末那識は、罪の意識みたいなものに非常に近い。そこから悪が生まれてくるイメージです。
多川 そうですか。ただ末那識は悪そのものではない。そこはとても微妙なところです。
佐藤 唯識には、キリスト教みたいな原罪観はなく、相互の影響を重視した関係主義的なものですね。
多川 唯識は難しいという宣伝が効きすぎて仏教者からも敬遠されているところはありますが、段階を踏めば非常にわかりやすいんです。『成唯識論(じょうゆいしきろん)』という一冊が私どもの聖典で、これは文脈付き辞書というか、定義集です。これに当たれば何でもわかる。唯識仏教の研究者の太田久紀さんは「唯識は楷書の仏教」だとおっしゃっていました。何が書いてあるかわからない草書ではないんですよ。
佐藤 それをさらにわかりやすく発信してこられたのが多川先生です。私は多川先生の本から学んだことを国際情勢の分析にも生かしています。例えば、いま日韓関係が非常に悪化していますよね。この関係を理解するには、韓国人の集合的無意識のレベルに入っていかないとわからない。韓国は半島国家で、大陸国家と海洋国家の両面がある。今は南北が分断されていますから海洋国家の側面が強く出ていますが、北朝鮮とアメリカの関係が調整されると、大陸国家たる部分が強くなり、どんどん中国に近づいていく。あるいは、アメリカは本来、ヨーロッパから離れて孤立してできた国だというアメリカ人の無意識がわからないと、トランプを理解できない。
多川 そうです。私たちは意識下の世界を探究しているわけですが、そうしたものが積み重なって生まれた文化の上に、私たちは生活しているというふうに考えられます。
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