【新型コロナ】夏の甲子園大会は過去2回中止 福岡・明善と徳島商の知られざる不運

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旧軍が開催した“幻の甲子園”

 明善以外の13校は、この大会以前か以後にも春夏どちらかの全国大会に出場し、勝ち星も挙げているのだが、明善はこの大会が2年ぶり2回目の出場で、その最初の出場時には初戦敗退を喫していた。さらにこれ以後、春夏通じて1回も出場することなく、現在に至っているのである。

 仮に大会が開催されていても初戦の相手は当時、強豪の呼び声高かった和歌山中(現・桐蔭)だっただけに、勝てたかどうかは微妙だが、何よりもまず試合する機会さえも奪われては……。

 こうして中学明善は、第4回大会の幻の代表校の中でも最も不遇なチームとなってしまったのだった。

 この米騒動による大会中止から23年後。再び夏の大会が中止の憂き目にあう。1941(昭和16)年の第27回大会である。

 当時、勃発していた日中戦争が激化したというのがその理由だった。そのため、各地で予選が行われている最中ではあったが、中止となったのである。

 これ以後、戦後の1946(昭和21)年に夏の第28回大会が開催されるまで、甲子園大会は春夏ともに中断されることに。

 ところが、である。実は翌1942(1942)年夏、戦時中ではあるが、“戦意高揚”を目的とした野球大会が甲子園で開催されていたのだ。

 正式には文部省とその外郭団体である大日本学徒体育振興会の主導による“大日本学徒体育振興大会”という名称で、柔道や剣道などに加え、中等野球もそのうちの一種目として甲子園で開催されたのだった。

 これが熱心な高校野球ファンの間ではいわゆる“幻の甲子園”として知られている大会である。

 開催するに当たって、従来の大会を主催していた朝日新聞社が“大会の回数継承”と“優勝旗の使用”を申し入れたが、文部省が拒否したため、この年の大会は高校野球の“正史”から除外されてしまったのである。

 そして、そんな“幻の甲子園”は、文部省に加えて日本軍主導で大会が進行されたため、かなり軍事色が色濃く反映されていた。

 のちに敵国語だということで禁止されることになる“ストライク”“ボール”などの野球用語はそのまま使用されたが、スコアボードには「勝って兜の緒を締めよ」、「戦い抜かう大東亞戦」という横断幕が掲げられていた。

 また、ローマ字表記のユニホームは認められず、漢字表記に改められた。試合開始の際も整列した選手たちが皇居の位置する東方へ一礼したほどであった。

 さらに、試合中、選手は“選士”と称され、あらかじめ出場校に配られた“選士注意事項”には「原則として1チームあたりの選手数は9人とし、選手交代ならびに控え選手の起用は負傷の場合を除いて原則禁止する」と記されているなど、続行不能でない限り交代が認めらなかった。

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