【新型コロナ】夏の甲子園大会は過去2回中止 福岡・明善と徳島商の知られざる不運
甲子園の代わりにお茶会!?
新型コロナウイルスの感染拡大が、野球の聖地をも揺るがす事態を引き起こしている。高校野球連盟は今月4日、今年の春の選抜を無観客試合で行う方向で検討すると発表。正式決定は11日に下されるが、場合によっては最悪、中止という選択肢もあるのだ。
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1924(大正13)年に第1回大会が行われた春の選抜は、戦中から終戦直後にかけての42~46年まで中断されたことはあったが、開催中止に追い込まれたことはない。
1941(昭和16)年、戦局の悪化を受け、当時の文部省がスポーツの全国的な大会を行わないよう通達を出した。後で詳しく見るが、この時、夏の選手権は地方大会の真っ最中だったが、通達を受けて中止となった。
これ以降、春と夏の甲子園は共に中断状態が続いた。復活したのは1947(昭和22)年。3月に選抜が、8月に夏の選手権が開催された。
1995(平成7)年の第67回大会と、2011(平成23)年の第83回大会は、前者は阪神淡路大震災、そして後者は東日本大震災の影響で開催危機に見舞われたものの、ともに震災の影響を考慮。鳴り物などの応援を自粛するなど被災地に最大限配慮して開催にこぎつけた経緯がある。それだけに大会中止となれば、まさに史上初の出来事なのである。
だが、そんな春の選抜に対し、夏の選手権大会は過去に2度、中止に追い込まれたことがある。その一つが1918(大正7)年に開催される予定だった第4回大会だ。
同大会は8月14日に初日を迎える日程となっており、遡ること9日には全代表が決定していた。出場校14校は、その舞台であった兵庫県鳴尾に集合済み(当時まだ甲子園球場はなく、鳴尾球場で開催されていた)で、13日には組み合わせ抽選会も実施されていて、あとは開幕を待つばかりとなっていたのだが……。
ところが、大会が開催される約3週間前の7月下旬、当時の政府の失政によって米の価格が高騰し、8月3日、富山県魚津の漁村の主婦らによる県外への米移送阻止騒動が勃発した。さらにこれが発端となり、次第に全国的な民衆暴動に発展してしまったのだ。
これがいわゆる“米騒動”である。そしてその波は大会会場だった兵庫県にも広がり(8月11日には神戸市で騒動が始まり、試合会場だった鳴尾球場にほど近い場所にあった総合商社・鈴木商店が焼き打ちにあっている)、周辺の治安も大幅に悪化。
このため主催者側は大会の一旦の延期を発表し、さらにその後、会場を大阪府にある北野中(現・北野)に変更し、その校庭を球場代わりにして非公開開催をする案なども検討されていた。
しかしその後も治安改善の見通しが立たなかったため、8月16日に大会の中止が決定した。そしてその代わりに大会を主催者する大阪朝日新聞本社で出場選手全員によるお茶会が開かれたのだった。
なお、この際、優勝旗は前年優勝校の愛知一中(現・旭丘)がそのまま持ち帰っている。大会の中止がよほど無念だったのだろう。同校の野球部史によると「我軍の遺憾やる方なし」「大優勝旗は我手に委ねられたり。これ我唯一の慰安たり」などと綴られているだけでなく、さらに翌年再び全国大会に進出することを「重務なり」と記しているほどなのだ。
その第5回大会で、愛知一中は晴れて全国大会まで駒を進めた。先輩の思いに後輩が見事、応える形となったのである。
逆にこのとき大会が中止になったことで、生まれた悲劇のチームがある。九州地区代表の中学明善(現・明善=福岡)だ。
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