感染者数にダイヤモンド・プリンセス号を合算する不毛

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 この1カ月余り、マスコミの報道の中心にあったのは言うまでもなく新型コロナウイルス。国民的な関心事であり、命にかかわることなので当然のことだろう。また、こういう危機の際にはあまり楽観的な情報を強調するのには問題があり、「念のため」というスタンスが求められる。

 とはいえ、「ちょっとオーバーではないか」「偏っているのでは」といった批判が寄せられている報道もある。

 代表例が「国内感染者数」の報じ方だろう。たとえば共同通信は、3月4日配信記事のタイトルを「新型肺炎、国内感染者1000人 死者12人、27都道府県に」としている。

 もちろんこの「1000人」には、ダイヤモンド・プリンセス号での感染者数も含まれており、そのことについて本文では説明がある。しかし、この客船での人数を「国内感染者」に含めるべきかについては疑問視する向きは少なくない。この記事に対するコメントでも、「クルーズ船は別にすべきだ」という声が数多く並んでいる。

 また、そもそもWHOのHPでも「確定感染者数」を見ると、「中国」「韓国」「イタリア」「イラン」「ダイヤモンド・プリンセス号」「日本」というように区分されている。「ダイヤモンド・プリンセス号」+「日本」といった公式はそこにはない。にもかかわらず、わざわざ合算するのは、状況をより深刻に見せようという意図が意識的にせよ無意識にせよあるのではないか――これが批判する側の論理である。この合算は、共同通信のみならずNHKなどでも採用している伝え方だ。

 実のところ、このように被害を「より大きく」、状況を「より悪く」伝えようとするのは、事故、災害などの際によく見られる傾向だといえる。

 ニッポン放送アナウンサーで、ニュース番組「飯田浩司のOK! Cozy up!」(月~金朝6時)のパーソナリティをつとめる飯田浩司氏は、自身の災害取材時の経験を著書(『「反権力」は正義ですか』)の中でこう振り返っている。

 東日本大震災の被災地、福島で継続的に取材を行っていた飯田氏は、震災から何年も経ち、復興がかなり進んでいるにもかかわらず、「大丈夫?」「防護服は着なくていいの?」といった言葉をかけられることがあったという。

 飯田氏が懸念しているのは、こういうイメージを持った人が取材に行くことの弊害だ。かなり復興が進んでいるにもかかわらず、たまに(時には初めて)現地を訪れる取材者は、とかく「被災地っぽい絵」を探して伝える傾向にあるという(以下、引用は全て『「反権力」は正義ですか』より)。

「そのイメージのまま『困っている姿を報じよう、まだまだ復興は道半ばだという様子を報じよう』と、イメージを補強するような事柄を探してしまうのです。鉄道が部分復旧して地域の足が戻ってきたという紙面なのに、フレコンバッグ越しに列車を撮影したりします。フレコンバッグというのは、除染した際の土など低レベル放射性廃棄物を入れる黒い袋。実際に現地に行くと、一体どこにフレコンバッグがあるのか、よほど探して『フレコンバッグ越しの列車の絵』を撮影したのでしょう。

 これは特に映像メディアに顕著なのですが、せっかく現地に出張したからにはどうしても『強い絵』を撮って流そうとします。そのため、たとえほとんどの風景が平穏であっても、『どこかにそれっぽい絵はないか』と探してしまうのです。しかし、それがその土地の実状を伝えているかといえばそんなことはありません」

 こうした「強い絵」あるいは前述の「1000人感染」のように「より大きな数字」を伝える側の理屈としては「大変な状況を伝えることこそが報道だ」といった義務感もあるのだろう。しかしそのマイナス面もマスコミは意識する必要がある。福島関連でいえば、結果として様々な風評を広めることにつながり、その影響はいまだに残っている。被災地の取材を続けてきた飯田氏は、こうした風評で苦しむ人たちを目の当たりにしてきた。

「科学的・学術的な事象を報道すると、とかく『難しい』という批判を浴びがちです。マスコミでも『一般人の肌感覚』が重視され、専門家に任せてきた分野に“市民感覚”でコメントするシーンが多くあります。ただ、この“市民感覚”は非常に揺らぎやすいモノ。メディアは“市民感覚”にべったりと寄り添うのではなく、科学的な知見を平易に表現する、イメージではなく科学的な根拠をしっかりと示し、時には世の中の流れに抗って世間を説得していく役割も担っていくべきなのではないでしょうか。(略)

 メディアの仕事は風評を『心配する』ことではなく、『払拭する』ことではないでしょうか。一般の人と一緒になって『不安』を共有するのは、結果として風評を拡散するのに一役買っていると言われても仕方がありません。

 放送には時間的な制約があり、紙媒体にも紙幅の制限があります。それゆえ、根拠を一つ一つ積み上げて報道することにはおのずと限界があります。それよりも、『何となく不安』、『何となく怪しい』といった感覚的なことを街角のインタビュー映像などで出す方が手間もかからず体裁を整えることができます。が、その『何となく』を繰り返してきた結果、メディアの信頼が徐々に落ちてきているともいえるのではないでしょうか?」

 新型コロナウイルス関連では、「トイレットペーパーが不足している絵」をしきりに映像で流していたメディアが、結果としてその不足を助長していた面は否定できない。また、事態改善のためには、感染者数の増減よりも、手洗いうがいの必要性を伝えるほうが地味であっても効果的なはず。そして、本当に経済やオリンピックへの影響を考えた場合には、単純な感染者数ではなく、人口あたりの死者、重症者といったデータも示したほうがいいだろうし、ましてや無意味な合算で「日本は大変だ」とPRする必要はないのではないか。

デイリー新潮編集部

2020年3月10日掲載

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