叩いていい存在、いけない存在(中川淳一郎)
スーパーで会計を終え、袋詰めをしている年の頃65歳というオッサンが突然店内全体に響き渡る大音量で「ヘーックン、ヘーック、ヘーックション!」とくしゃみをしました。その瞬間、店内には「新型コロナのオッサンがおる……」と緊張が走り、買い物客は彼から離れます。
その後もオッサンは同様のくしゃみを続け、私が買い物をする2~3分ほどの間もずっとこの大音量が聞こえていました。彼とは20メートルほどの距離があったものの、皆も、「もっと離れなくちゃ」とばかりに店の奥の方へ行きます。私が買い物を終え、レジに向かおうとしたところ、オッサン、なんと、店を出るタイミングで再びヘーックションとやりました。せめて外に出てからやれよ。
この時一緒にいた美女は「あのオッサン、絶対わざとやってるね」と言っていましたが、さすがにそんなことはないだろうと思いつつ、たいした量の買い物でもないのに2~3分もあの場所にい続け、わざわざ自動ドアの内側で盛大にくしゃみをするあたり、「ワシ、人々を不安にさせたいの、ウフ」とか考えるクソサディストオッサンなのでは、とも思いました。
さて、こうして書いてはきたものの、文章の世界においても「叩いていい存在」「叩いてはいけない存在」というものがあることをここ数年日々実感しています。「ポリコレ」と略される「ポリティカル・コレクトネス」ってやつがその背景にありますが、マイノリティや弱者に対しての批判はご法度だけど、強者に対しては何を言ってもいいというのは、ある意味、逆差別ですね。
今の時代、オッサンがその唯一のターゲットとして叩いていいことになっています。えぇ、これが社会的コンセンサスです。1980年代後半には『オバタリアン』という四コマ漫画があり、中年女性がいかに傍若無人に振る舞うかをデフォルメして描き、流行語になりました。大仏ヘアーでスーパーの試食も容赦なく食べ、電車の中でも大声でわめき散らすといった非常識な中年女性が主人公です。
多分、こんな漫画は今は成立しません。
今の時代、(カネがないと思われている)女性、子供、高齢者、若者を叩く表現はご法度となり、こうした人々が犯罪的行為をしたり不倫をした時のみ、ようやく叩くことができる。まぁ、高齢者でも男性で金持ちだったら叩いていいという不文律はあります。ドナルド・トランプ氏や「上級国民」と話題になった、池袋暴走事故の加害者・飯塚幸三などが典型例でしょうか。
SNSの発展もあり、誰もが発信できるようになった今、「属性」により叩いていいかどうかを皆が考えているわけです。もしも叩いていい属性以外に批判的な言動を述べれば今度は自分が炎上してしまう。
以前私は当コラムで、スーパーの店員に舌打ちをする不躾なオッサンのことを「全日本仏頂面協会」に属しているのではないか、と書きました。今回の書き出しもオッサン批判です。あと数年したら、今度はオッサンが「なんでオレらだけ叩かれていいんだ!」と反撃の狼煙をあげる日が来るかもしれませんね。