勝新太郎、座頭市にみる独自のリズム 若山富三郎が感じたジャズ
湯浅学「役者の唄」――勝新太郎(4)
俳優・勝新太郎は、優れた音楽家でもあった。歌手活動はもちろんのこと、その才能は手がけた作品、演技でもいかんなく発揮されている。勝といえば、座頭市。音楽評論家の湯浅学氏は、彼の類まれな「リズム」に注目する。
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三味線の間合いと足の運び
映画の中で勝新太郎は、あまり歌っていない。しかし『新・座頭市物語』の中で、市は小唄を披露する。
座頭、座頭といわんすけれど、仕方なくなく按摩上下十六文 元手いらずの丸儲け
三味線の音は明瞭で、簡素でゆるやかだ。指の運びから見てもこれは同録で勝新の弾き語りだとわかる。本職なのだから上手とか下手とかいうようなレベルではない。
低い唸りで誘い高音で酔わせる。たったこれだけの言葉が、何十分も味わったような聴後感をもたらす。主音だけのこれ以上略せない音数の三味の、一音一音の間合いは、市が敵と対するときの足の運びと相通じている。にじり寄るのではなく、相手どもの動きを聴き、嗅いでいるのだ。三味線の指が次にどこへ行くのか、見るほうはつい予想したり見とれてしまったりするが、市には次の音はすでに身についているから、指に迷いはない。座頭市に向かってくる者のほとんどは市が仕込みを抜く前に、すでに刀を抜いている。刃身(とうしん)ももちろん匂う。市がどうでるか、予想しようにも市は自分から斬りにいくことはないので、相手は自分から斬りかかるしかない。目あきは目に見えるものに頼る。市は感じるものすべてで生きる。市は迷ったら死ぬことを常に感じている。
〝座頭の小唄″を勝新は、間合いをわざわざたどたどしくとって、市が身体の中の言葉を辿っているように歌っている。最初は、聴く者たちの呼吸を量っているように見える。〝~言わんすけれど″までで、聴き手たちの呼吸を自分の間に引き込んでいる。そのためにゆっくりと三味線の棹(さお)の指は立って動くのだ。指と音が歌の誘惑を強化する。
〝仕方なくなく~″から、市は聴く者の耳を自分の間合いで撫でまわす。低音で誘われた者たちは高音に巻きつかれて身動きできぬまま、市の歌に仕留められる。歌は見るものではなく、聴くもの、聴かされるものだと市に教えられる。音楽も迷ったら死ぬ、と。
勝新と兄・若山富三郎は、俳優業に転じてからも、定期的に、父であり師匠である杵屋勝東治と三人で三味線の稽古をしていた。音楽が身体から離れることがなかった、ということだと解釈できる。勝新は自分独自のリズムで弾くことに長けていて、時に自由すぎることを父から咎(とが)められたともいうが、若山はそんな勝新のリズム=間合いにジャズを感じていたという。
座頭市の間合いや足の運び、動き、腰を少し落した姿勢などは日本の舞踊に直結している、ともよくいわれる。型を知るから、そこから離れる術もわかる。しかし市のリズムに定型はない。三人の相手がエイ・ヤァ・トゥと振りかざしてきても市はそれに三拍子で応じたりしない。最初のエイとヤァの二拍を一拍分で仕留めて、三人目を素早く突き刺していることは多い。相手の刃先をかわす前にすでに二人と半人分ぐらい殺しているようなビートだ。立ち回りの最初の二人などはまるでドラムスのフィル・インだ。座頭市は相手が何人だろうと、来る者は拒まず、とにかく斬る。斬り続けなければならない自分の性(さが)を悲しむほどに斬り上げてしまう。流麗なステップでしなやかに斬ってみせることもあるが、斬りつける者たちはまるでイナゴのようでもあり、しばしば登場する敵方の剣豪との対決でも相手のビートに乗っておいて、最終的には自分のリズムに引き込んで斬る。ジャズのセッションでソロを取るにあたって、あえてロング・トーンや遅れて入ったりしておきながら最後は自分の最も速いリズムでありったけの音を弾きまくる、たとえばエリック・ドルフィー(※注1)のような人を思い起こさせる。
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