日本で初めて「カーブを投げた男」……野球殿堂入りの元鉄道マン「平岡熙」とは何者だったのか

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にっぽん野球事始――清水一利(3)

 現在、野球は日本でもっとも人気があり、もっとも盛んに行われているスポーツだ。上はプロ野球から下は小学生の草野球まで、さらには女子野球もあり、まさに老若男女、誰からも愛されているスポーツとなっている。それが野球である。21世紀のいま、野球こそが相撲や柔道に代わる日本の国技となったといっても決して過言ではないだろう。そんな野球は、いつどのようにして日本に伝わり、どんな道をたどっていまに至る進化を遂げてきたのだろうか? この連載では、明治以来からの“野球の進化”の歩みを紐解きながら、話を進めていく。今回は第3回目だ。

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日本野球の歴史を語るうえで、どうしても忘れてはいけない人物がいる。それは平岡熙(ひろし)という人だ。平岡はもともと鉄道技師で、1871(明治4)年、機関車の製造技術を学ぶために弱冠16歳でアメリカに留学したという人物である。彼は勉強のため汽車の製造会社に勤務しながらニューヨーク、フィラデルフィア、ボストンなど主にアメリカの東部地区を回ったが、そこは当時、アメリカの中でもベースボールがとりわけ盛んなところ。そのため平岡はベースボールに魅せられ、すぐさまレッドソックスの大ファンになった。

そして、鉄道技術を学んだ平岡は1876(明治9年)に帰国して新橋鉄道局に入局するや否や、すぐに局員や当時日本に来ていた外国人技師たちに声をかけ、「新橋アスレチック倶楽部」という野球チームを結成した。この「新橋アスレチック倶楽部」こそ、日本で初めて誕生した本格的な野球チーム第1号とされている。

平岡が作った新橋アスレチック倶楽部は2つの点で恵まれていた。1つは、ボールやバットはもちろんのこと、グローブやミット、ベース、さらにはネットまで完璧な野球道具のほぼ一式全部を持っていたということである。

満足なボールすらなかったあの時代に、どうして、そんなことが可能だったのかといえば、アメリカ留学中に、平岡はアルバート・スポルディングという人物と知り合っていたからだ。アルバート・スポルディングとは、いまや世界有数のスポーツ用品メーカーとなっているスポルディング社の創業者であり、同社は当時からすでにアメリカ中でもっとも大きな野球用品メーカーだった。そのスポルディングに手紙を送り野球道具の提供を請うた平岡に対して、スポルディングはすぐに快諾、無償で道具一式とルールブックを送ってきたのだった。

 もう1つ恵まれていたことは、平岡が鉄道技師として入った新橋鉄道局が品川区北品川(現在の京浜急行北品川駅付近)に「保健場」と呼ばれた専用のグラウンドを持っていたということだ。新橋倶楽部の母体となった新橋鉄道局には電車を作るための工場があったため、広い土地を所有していた。鉄道局の汽車課長になったことを機に、平岡は保健場に芝生を一面に植え込んだ本格的な野球専用のグラウンドを設けたのだ。

しかも、その工場には、当然のことながら車両の材料となる木材、座席に使うための布などの資材が豊富に置いてあった。そこで、平岡たちはスポルディングが送ってくれた野球道具を参考にして自分たちの手で道具を作っていったという。こうした平岡たちの熱意で野球をする環境はますます整備され、野球に打ち込む人間が増えていった。

 日本に初めての本格的な野球チーム、新橋アスレチック倶楽部を作ったことで、日本に野球が続く限り平岡の名前は決して色褪せることはないだろう。

 しかし、日本の野球史における平岡の功績はそれだけではない。野球の歴史で最古の変化球といわれるカーブを日本で初めて投げて見せたのが他でもない、この平岡だったのだ。いまでこそカーブは少年野球の投手でさえいとも簡単に投げることのできる、ごく普通の変化球だ。カーブを投げても誰も驚いたりはしない。

だが、当時は誰1人として見たことのない魔法のような驚くべき球筋のボールだった。曲げる、曲げない以前に、そのころの投手は打者の指定したところに投げることになっていたから、平岡の投げるカーブに対して「ずるい魔球」「卑怯な球」という声が上がったのも当然だったろう。

 平岡が試合でカーブを投げると相手チームからすぐに、「変な球を投げるな。打ちやすいボールを投げろ」というクレームがついたそうだ。これに対して、平岡はスポルディングが送ってきたルールブックを相手に示し、「これはアメリカで投げることがルールで許されている球だ」といって譲らず、頑なにカーブを投げ続けたという。

 やがて、他の選手たちも見よう見まねでカーブを投げるようになり、いつしか誰も「卑怯な球」とはいわなくなった。この平岡は野球への功績を認められ、1959(昭和34)年に特別表彰者として野球殿堂入りしている。さらに、平岡の名を後世に伝えるため2010(平成22)年からは全日本クラブ野球選手権大会 の優勝チームに「平岡杯」が授与されている。

(つづく)

清水一利(しみず・かずとし)
1955年生まれ。フリーライター。PR会社勤務を経て、編集プロダクションを主宰。著書に「『東北のハワイ』は、なぜV字回復したのか スパリゾートハワイアンズの奇跡」(集英社新書)「SOS!500人を救え!~3.11石巻市立病院の5日間」(三一書房)など。

週刊新潮WEB取材班編集

2020年3月1日掲載

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