野村克也さん逝去でも「南海ホークス記念館」に献花台ナシ 最後まで残った確執
沙知代夫人は盗聴器の使用を夫に提案
週刊新潮の引用を続ける。
《のちの監督、広瀬叔功(よしのり)氏も、
「彼女が練習場に子供を二人連れてきていたので、それはやめてくれと直接言いましたね。やはり南海のプレーヤーが試合前の調整をしているわけですから」
と言う。さらに問題なことに、このときサッチーは克也氏の愛人にすぎなかった。ダブル不倫の末、サッチーはすでに73年に克則氏を出産していたが、克也氏の離婚が78年まで成立せず、二人が結婚したのはその後なのだ。
72年から75年まで南海に在籍した江本孟紀氏も、
「僕がいた当時も沙知代さんは球場に顔を出して、選手の髪型や服装を注意することはありましたが、僕が出てから、球団や親会社と揉めはじめたと聞いています。江夏豊らが入団した76年ごろからですかね」
と証言。ふたたび吉見氏の話にもどると、
「野村監督の後援者だった比叡山の阿闍梨も、沙知代さんを紹介されて”監督を続けるために別れなさい”と忠告し、野村さんを崇拝していた川勝傳(でん)オーナーも、どうすれば別れさせられるか、と頭を抱えていました。結局、どうにもできなくなって匙を投げ、スポニチの記者だった私はそれを聞いて”野村監督解任”のスクープを打ったんです」》
沙知代夫人は2001年12月、法人税と所得税あわせて2億1,300万円を脱税したとして、法人税法違反(脱税)などの疑いで東京地検特捜部に逮捕された。このため当時は阪神で監督を務めていた野村氏も辞任を発表した。
週刊新潮にコメントを寄せた吉見健明氏は、この時、スポーツニッポンに「【野村解任 点と線】夫人転落で再び 24年前は“公私混同”で…」の記事を執筆した。ここからも一部を引用させていただく。
《南海時代の更迭劇は76年、阪神にトレードされた江本が「このままでは南海が崩壊する」と危機感を訴えたのが発端だった。当時の野村監督はまだ前夫人との離婚が成立していなかった。いわば沙知代夫人は愛人の立場だった。
沙知代夫人のチームへの介入は全選手の反発を買っていた。試合前の大阪球場で高畠打撃コーチに対して2人の子供、ダンとケニーに野球を教えるように指令したり、選手専用バスに乗り込むなど“公私混同”は日常茶飯事だった。選手ロッカーに盗聴器を忍ばせることを提案、造反選手に直接電話を入れて「監督の言うことを聞かないと使わないわよ」と“助監督”ぶりも発揮した》
野村氏と沙知代夫人の出会いは1970年とされ、ほどなくして愛人関係になったと言われている。
野村氏を諫めると、江本氏は阪神へトレード
週刊新潮の記事にもあるが、配偶者と離婚したのは沙知代夫人の方が早くて76年のことだった。野村氏は78年の1月に成立し、同年4月に2人は再婚した。
スポーツニッポンの記事でも言及された江本孟紀氏(72)だが、他に2人の選手と共に75年、選手側代表として野村監督に面会している。
その場で3人は「公私混同」――つまり沙知代夫人がチームに介入してくることを止めるよう求めた。改めて江本氏に取材を依頼した。
「僕自身は沙知代夫人から直接の被害を受けたことはありません。ただ、一部の選手が被害を訴え、選手会としても看過できない状態になりました。何より問題だったのが、チーム内部がどんどん白けたムードになっていったんですね。これはなんとかしなければならないと、野村さんに会って改善を求めたのは事実です」
一般的には、これで江本氏は野村監督の不興を買い、12月のトレードで阪神に“放出”されたことになっている。だが、江本氏は明確な因果関係を否定する。
「3人で直訴しましたが、その中にはトレードに出されなかった選手もいます。沙知代さんとの問題とは何の関係もなく、単に僕が南海では必要のない選手だと判断された可能性もあります」
そんな江本氏、実は以前から「メモリアルギャラリー」の状況を把握し、「野村さんの記述がないのはおかしい」と疑問を抱いていたという。
「数年前、野村さんに『名前や写真を出してもらいましょうよ』と持ちかけると、まんざらでもなさそうな表情でした。ところがしばらくすると、『南海が俺の写真や名前を使わないと言ってきたそうだぞ』と仰るんですね。それならば、と南海さんとも話し合いの場を作ってもらったのですが、南海さんは『野村さん側がお断りになられました』と平行線でした」
江本氏には忘れられない光景がある。2018年2月、宮崎で巨人と“ホークス”、つまり南海、福岡ダイエー、そしてソフトバンクのOB戦が開催された時のものだ。
野村氏だけでなく、長嶋茂雄氏(84)も王貞治氏(79)という巨人側のスターOBも駆け付けたため、大変な話題となったイベントだ。この試合には江本氏も南海OBとして参加した。
「ホークス側のベンチに行くと、実態はほぼ、ダイエーとソフトバンクのOBチームなんですよ。南海の関係者は少なかった。野村さんもベンチの端でぽつんと座っているから、声を掛けたんです。すると何人かの南海OBを『挨拶に来なかった』と批判を始めたので、『野村さんは南海で嫌われているんですから、挨拶に来るわけないでしょう』と言ったら苦笑していましたね」
南海が身売りをしてしまったことも、“関係修復”を難しくした一因かもしれない。野村氏と南海を繋ぐ人脈が失われてしまったのは間違いない。
しかしながら江本氏は、一度は橋渡しに奔走した人間として、「関係修復は、やはり夢物語だったんでしょう」と振り返る。
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