勝新太郎の映画「顔役」はフリー・ジャズだ 現実との生身のセッションとは?
座頭市の内側の動き
目を閉じているからこそ動きをより俊敏に感じさせる。それが勝新太郎の座頭市だった。聴覚や嗅覚の鋭さを身体で描き出す。座頭市の頭の中の図像、映像とはどのようなものなのか。勝はそれを想像していた。
我々が「不知火検校」再映画化の話で会いに行っていたころのこと。ある日勝は「頭の中にはいろんな映像や音があるだろう。それを実際の映像にする研究っていうのはずっと続いていて、今はザーザーした絵だけど、動き絵として見えるようになってるんだよ」と言った。
そのような研究所があり、縁があって先日行って自分の頭の中の絵を試しに見せてもらったと勝は言った。
「そういう画像も映画に使ってみたいと思っている」という。
砂嵐のようなものが動く。それだけで不知火検校の悪を感じさせる、ということかもしれない、と俺はそのとき思った。
何、と明確に言えないけれども、確かにそこにあるもの。あるいは、あるのかどうかわからないが、何事かを強く感じさせるもの。それを認めるかどうかが重要だろう。と勝の映画を見、勝本人と話していて、ますます強く思うようになった。
人の仕草や行動を細かく観察していた勝は“人間の内側の動き”にも敏感だった。映画のおもしろさは、光と影と音で、それを描き出すことにある、と熟知していた。音楽家としての勘がそこに大いに作用していた、と考えることはできないか。
一般的に抽象的と言われるような題材でも勝はあえて取り組んでいった。「燃えつきた地図」、そして「顔役」、「新座頭市物語 折れた杖」、その流れの先にさらに「警視-K」がある。勝の監督作品「顔役」を見ていくと、勝が“一般論”や暗黙のうちに成立したことにされている“映画の文法”などに、強い疑いを持っていたのではないか、と思う。その源には伝統的なしきたりのある世界で育ち、それを学びとった玄人であるからこその意地から生まれた反逆精神がある。映画界のヒエラルキーに苦汁を嘗めさせられた経験もそのエネルギーに転換させられていたかもしれない。監督としての勝新太郎は恐ろしい。
石原慎太郎は勝新との対談でこう言っている。(『泥水のみのみ浮き沈み』94年刊)
“勝さんが芝居書いたりすると、起承転結なんてすっとばしちゃって、ベケットとかイオネスコの芝居みたいな一風変わった面白い芝居書くんじゃないかと思うね”
「顔役」を見て、まず考えさせられたのは映画にとってフレームとは何か、ということだった。この映画で勝は「フレームの中だけが映画と思うなよ」と言っていやしないか。ふと川島雄三のことを思い出した。音楽でいえばフリー・ジャズだ。ビートを保持するのは監督の役割だが、壊すのもまた監督の息ひとつで決まることを忘れるな、と見る者に言い放っている。変化に富んだ、野放図な、しかし見る者を釘づけにする一作だが、これが現状簡単に見られないのは誠に残念だ。頭の中で組み立てられた映像美ではなく、現実と生身でセッションしているうちに生まれた映像だから経年劣化がない。ドキュメンタリーかと思う瞬間が何度もある。実際に賭場で渡り合っているのは本物の渡世人たちだった。演技ではなく、その動作は日常のものだった。“反社会的勢力”という言葉が一般的ではなく、そもそもほとんど使われていなかった時代の、映画がまだまだ得体の知れない生き物でいた証しのひとつが勝新太郎の「顔役」だ、と俺は思う。
最近京都で、比較的きれいなプリントが発見された、という。ぜひデジタル化して保存願いたい。
(つづく)
[2/2ページ]