澤田秀雄(HIS会長)【佐藤優の頂上対決/我々はどう生き残るか】
旅行事業から始まったHISは、赤字続きの「ハウステンボス」の経営を引き受けると、わずか1年で黒字に転換させた。その一方、同地でロボットやホテル、発電、農業などの事業を次々と展開していった。その広大な敷地はいま、さまざまな事業の実験場になっているのだった。
佐藤 澤田会長と私には一つ大きな共通点があるんです。それは初めて外国に行った若き日の旅が、その後の人生に決定的な影響を与えているということです。確か澤田会長がドイツに行かれたのは、1973年ですよね。
澤田 ええ、22歳の時でした。僕は横浜から船に乗ってロシアのナホトカまで行き、そこからシベリア鉄道でヨーロッパまで行きました。
佐藤 飛行機よりシベリア鉄道の方が高かったんじゃないですか。
澤田 そうです。ただ切符は日本国内で買っていきましたね。
佐藤 それでドイツ南西部のマインツまで行かれた。
澤田 はい。76年までマインツ大学に通って、それから世界各国を旅しながら帰国しました。
佐藤 実は同じ時期に、私もヨーロッパを旅していたんです。当時15歳だったのですが、東欧諸国を回りました。
澤田 15歳で、ですか。それはすごいですね。
佐藤 高校1年生の夏休みを丸々使いました。私もナホトカ経由で往復しようとしたのですが、そうなるとヨーロッパまでの交通費を、「持ち出し制限」枠の1500ドルから払わなくてはならない。飛行機ならその枠とは別に日本で航空券を買うことができた。それだと1500ドルがそのまま旅費として使えます。
澤田 じゃあ、飛行機で行かれたわけですね。どこの便ですか。
佐藤 当時はまだ格安航空券は普及していませんが、最初に相談した旅行会社の女性が、ITU(国際トラベラーズ・ユニオン)という旅行会社に格安の航空券があると教えてくれて、エジプト航空で行きました。
澤田 カイロ経由ですね。
佐藤 ええ、カイロまでも香港、バンコク、ムンバイと寄港しました。そしてカイロで乗り換えて、チューリッヒへ。そこからは汽車でプラハに入りました。
澤田 懐かしいなあ。ヨーロッパへの安い便は、南回りのエジプト航空やパキスタン航空でしたね。
佐藤 最初のショックは、エジプト航空の飛行機の内装にヒエログリフが書いてあって、お墓みたいだったことですね。機内は蠅がブンブン飛んでいて、スチュワーデスではなく男のスチュワードばかりでした。そしてカイロに着いてみれば、空港内を走るリムジンバスのタイヤが客席にむき出しになっている。ぎゅうぎゅう詰めの中、そこに足を巻き込まれないよう必死につり革を掴んでいた。もうカルチャーショックの連続でした。
澤田 しかも15歳ですものね。
佐藤 でもチューリッヒに着いてユースホステルに泊まったら、日本のホテルより断然いいんです。それからシャフハウゼンに行き、そこのユースホステルがお城を使っていたのに驚きました。
澤田 当時はみんなユースホステルを使って旅をしていましたね。
佐藤 そこからドイツを経由してプラハに行き、ワルシャワ、ブダペシュトと滞在して、ルーマニアに行ったのですが、ルーマニアは酷かった。空港にリムジンバスもタクシーもいない。
澤田 その雰囲気、わかります。
佐藤 途方に暮れていたら、ドイツ人旅行者が声をかけてくれて、ここはレンタカーがないと動けないよと。彼の車に乗せてもらって、外国人用のインターコンチネンタルホテルに行ったんですが、ここも酷かった。豆電球が灯っているような薄暗い部屋でした。しかも外に出てみれば、そこら中に“写真×”の印がある。
澤田 写真を撮ったらダメだということですね。社会主義国らしい。
佐藤 日本で勉強した本には、チャウシェスク政権はソ連に異議申し立てしているし、チェコの侵攻にも加わらなかった自由な国だと書いてあったんですけどね。
澤田 勉強もして行かれたんですね。
佐藤 でもソ連に入ったら、人は親切だし、生活環境はいいし、何から何まで格段に違っていた。
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