野村克也さんを偲ぶ 私の交際相手の名前も持ち出した「ささやき戦術」【柴田勲のセブンアイズ】
プロ野球界の巨星がまた一つ落ちた。選手、監督、そして評論家として活躍された野村克也さんが亡くなられた。享年84歳だった。
野村さんのプロ野球人としての実績は申し分ない。1965年には戦後初の三冠王を獲得したし、監督としてもID野球を駆使してヤクルト時代に3度日本一に輝いた。「野村再生工場」なんて言葉もあった。
捕手、そして打者としても素晴らしかった。
首位打者一度、本塁打王9度、打点王7度というからおそれいる。それでも一時は1位になっていても、結局は2位になる記録も多かった。
同時代に王(貞治)さんという大打者がいたことが大きかった。
いまこうして振り返ってみると、正直なところ私にはいい思い出が浮かばない。
一応、ライバル関係なのだがリーグが違う。
V9時代には日本シリーズで3回対戦している。もちろん3回とも巨人が南海を倒した。
野村さんはどちらかというと、肩が強い方でではなかったと思う。走者を出すと結構、盗塁を許していた。
そこで生まれたのが有名な「ささやき戦術」だった。打者の集中力を殺ぐためで、野村さんにすれば自身の弱点をいくらかでも補おうとの考えだったのだろう。
私もやられた。歌手の伊東ゆかりと交際していたことがある。週刊誌などを中心に大きく報道されていた。
で、対戦した際に私が打席に立つと、野村さんはマスク越しに彼女のヒット曲「小指の想い出」を歌ったりした。さらに
「伊東ゆかりとはうまくいっているのか?」とか、「小指をかんだのはお前か?」なんてボソッボソッとつぶやかれた。
こっちはそれを発奮材料にしたし、平常心で向かうことにしていた。
それでも一度、一緒に旅行したことがある。
1966年、南海との日本シリーズでMVPを獲得した。川上監督からご褒美で「ヨーロッパ旅行に行ってこい」と指名を受けた。
野村夫妻、城之内(邦雄)夫妻らとだった。その時、前の奥さんには仲良くしていただいた記憶がある。
まあ、その後は会うと、野村さんの代名詞になっている「ボヤキ」というのか、「嫌み」を聞かされた。
「O(王貞治)、N(長嶋茂雄)はひまわり、俺は月見草」という名文句がある。通算600号本塁打を放った時に話したものだ。
人気のあったセ・リーグで大スターだった0Nとお客さんの少ないパ・リーグで一生懸命やってきた意地を表したものだろう。
それが野村さんの原動力でもあり、売りでもあった。ONだけじゃない。我々、巨人ナインにも「お前らはひまわりで、俺は月見草だ」とよく話していた。
以前、野村さんが本当は巨人に入りたかったという話を聞いたことがある。複雑ななにかがあったのかもしれない。
もっとも、同じ捕手同士からか。森さんとは仲がよかった。野村さんが兼任監督時代だ。森さんに「野村と食事に行くから付き合え」と言われて出かけたことがある。
六本木で落ち合うと、そこで野村さんに紹介された女性が沙知代さんだった。「いま付き合っている」と知らされて、「奥さんがいるのにな」と思ったものだ。その後のことは皆さんも詳しいだろう。
嫌みな思い出と言えばもう一つ。野村さんがヤクルト監督時代だ。土井(正三)さんと2人でキャンプ地を訪問したことがあった。当然のことながら挨拶にいった。すると、「オイ、巨人からスパイが二人も来たぞ」。第一声がこれで土井さんともども何も言えなかった。
名球会の会員だったけど、王さん、長嶋さんのことを好きではなかったのかな。非協力的だった印象が強い。
野村さんは自らを月見草と称し、巨人、そしてONの存在をバネにして努力を重ねてのし上がってきたのだろう。
昨年の10月には金田正一さんが天国に旅立たれ、今度は野村さんが死去された。生涯一捕手を貫いた生き方から繰り出されたボヤキはもう聞けない。寂しい。
ご冥福を心からお祈りいたします。