21世紀はお辞儀の時代に? 新型肺炎予防(古市憲寿)

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 あるテレビ局員が来月、マカオに行く予定だという。しかし気になるのは新型肺炎の行方。中国を中心に被害が拡大しており、マカオや香港でも感染者が確認されている。

 その局員が関わる情報番組では、連日のように感染症の専門家が呼ばれていた。局員は特権を利用して「私、マカオへ行っても大丈夫ですか」と質問するのだが、興味深いのは専門家によって緊張感が違うこと。

 ある人は「全然、大丈夫」と笑い、ある人は真面目な顔で「やめた方がいい」と言う。本当はマカオに行きたくて仕方がない局員は、楽観的な専門家の意見を信じることにしたようだ。確証バイアスとも呼ばれるが、人は自分に都合のいい情報ばかりを探してしまうものなのだろう。

 偏見や思い込みから自由になることは難しい。

 統計的には、飛行機事故よりも交通事故、竜巻よりも喘息、テロよりもインフルエンザのほうが多数の人命を奪っている。しかし多くの人は飛行機事故やテロを怖がるくせに、車ではシートベルトを締めなかったり、インフルエンザの予防接種を受けなかったりする。

 特に新型肺炎は連日のようにメディアが危機感を煽ってきた。不安の声が高まり、デマが流行するのも理解可能だ。

 これはニュースの限界なのだが、悪いことは一瞬で起こるが、良いことは一朝一夕では成し遂げられない(スティーブン・ピンカー『21世紀の啓蒙』)。つまりどうしても「悪いニュース」ばかりが世界を駆け巡ることになる。仮に数カ月後に新型肺炎が終息したり、数年後にワクチンが開発されても、その頃にはほとんどの人が病気に対する関心を失っているだろう。その頃、メディアはまた新しく発見した「悪いニュース」に夢中なはずだ。それこそが「時代はどんどん悪い方向に向かっている」と人々が考えてしまう理由でもある。

 結局、新型肺炎予防には、地味ではあるが手洗いを徹底し、できるだけ人混みを避けるといった方法しかない(「葛根湯が新型肺炎にも劇的な効果!」とかだったら、報道のトーンも変わったかも知れない)。

 ちなみに感染症一般に関していえば、日本でパンデミックは起きにくいという説がある。ハグや握手よりもお辞儀を重視し、食事の時も箸を使うので手づかみの機会が少ない(井上栄『感染症』)。確かにヨーロッパでは、多くの人はマスクなんてしないし、レストランでおしぼりはまず出てこない。それなのに素手でパンを食べている。

 新しい病気が、こうした昔からの行動様式を変えていくこともあり得る。

 人々が移動する時代だ。新型肺炎が終息しても、これからも新しい感染症が世界中を悩ませていくのは間違いない。しかし感染症の予防法には共通点が多い。

 そういえば近未来を描いたSF小説で、テレビ会議が当たり前になる中、握手ではなくお辞儀が世界的に流行するという描写もあった。21世紀はお辞儀の時代になるのかも知れない。

古市憲寿(ふるいち・のりとし)
1985(昭和60)年東京都生まれ。社会学者。慶應義塾大学SFC研究所上席所員。日本学術振興会「育志賞」受賞。若者の生態を的確に描出し、クールに擁護した『絶望の国の幸福な若者たち』で注目される。著書に『だから日本はズレている』『保育園義務教育化』など。

週刊新潮 2020年2月20日号掲載

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