山口組顧問弁護士が見た「バブルとヤクザ」「天国と地獄」

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山口組「顧問弁護士」が明かす暴力団平成史 私が渡った危ない橋(2/2)

『山口組の平成史』の著者・山之内幸夫氏(73)は、1984年から三十数年、山口組の顧問弁護士を務めた。氏が経験した“危ない橋”、そして間近で目撃してきた暴力団の平成史は、いかなるものだったのか――。

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 1989年に終結した山一抗争。その実話を基にした山之内氏のベストセラー『悲しきヒットマン』は映画化もされ、また中井貴一主演の映画「激動の1750日」もヒットを記録する。これをきっかけに、「強い山口組」のイメージは世間に浸透し、トラブルを抱えた経済界からの“信頼”も集めるようになる。

「(山口組)5代目が誕生した平成元年からバブル終焉後の1、2年が、ヤクザが史上最も金を持った時代です。債権回収や高利金融といった伝統的シノギから不動産の占有・競売、倒産整理、地上げにいたるまで、表経済を侵食した暴力団による『民事介入暴力』が全盛を極めたこの時代ほど、暴力が金を生んだことはありません。特に土地開発での莫大な利益に目が眩んだ大銀行から資金が流れた『地上げ』に参入したヤクザには、巨万の富を手にした成功者も少なからずいました。中でも、宅見さんは『西の宅見、東の石井(進・稲川会2代目会長)』と言われた経済ヤクザの頭目の一人でした」(山之内氏)

 89年当時のヤクザ全体の年間収入は1兆3千億円と言われ(溝口敦『暴力団』新潮新書)、当時のヤクザ人口8万6千人で割ると1人の年収が約1500万円になると推計された。山口組について言えば警察庁が同じ年の収入を年間8千億円と発表している。「金のないヤクザは首がないのと同じ」とまで言われた金満ヤクザの台頭である。

「大阪には北新地という歓楽街がありますが、92年頃まで私もよく宅見さんの秘書の方とご一緒しました。暴力団入店歓迎のクラブでは、着飾った民暴ヤクザの親分衆で賑わっており、皆さん体中に高価な装飾品をまとい、それを高級ホステスたちが褒めちぎるんです。ほとんどがブランドの話で私などとても付いていけません。同行の宅見組秘書も個人のシノギで地上げに関わっていて羽振りがよかった。ロールス・ロイスで店に乗りつけ、時計、ブレスレット、ネックレスほか身につけたものを合わせると1人で上代価格3億円分くらいはまとっていました。香水の匂いをさせ、現金をばら撒くのだから、下手なバブル紳士よりモテるのも当然です。クラブ通いが日課で月に数百万円も金を落とす御仁もいて、圧倒的に金の力が幅を利かせていたんです」

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