日本に野球を伝えたのは誰だったのか? 148年前「明治人」が熱狂した“ベースボール”
にっぽん野球事始――清水一利(1)
現在、野球は日本でもっとも人気があり、もっとも盛んに行われているスポーツだ。上はプロ野球から下は小学生の草野球まで、さらには女子野球もあり、まさに老若男女、誰からも愛されているスポーツとなっている。それが野球である。21世紀のいま、野球こそが相撲や柔道に代わる日本の国技となったといっても決して過言ではないだろう。そんな野球は、いつどのようにして日本に伝わり、どんな道をたどっていまに至る進化を遂げてきたのだろうか? この連載では、明治以来からの“野球の進化”の歩みを紐解きながら、話を進めていく。今回は第一回目だ。
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野球、すなわちベースボールなる球技が発祥の地アメリカから日本に伝わったのは、いろいろな説があるものの、いまから148年前の1872(明治5)年というのが現在では通説となっている。
もっと詳しくいえば、その前年の1871(明治4)年、東京・神田にあった南校(後の開成学校。東京大学の前身)に英語教師兼宣教師として赴任したアメリカ人ホーレス・ウィルソンが、翌年、学生たちに野球を教えたというのが始まりとされている。現在、南校の跡地(千代田区神田錦町3‐28)には学士会館が建ち、敷地内にボールを握った手をかたどったモニュメントが飾られている。
そして、そこには、「この地にはもともと東京大学およびその前身の開成学校があった。一八七二(明治五)年学制施行当初、第一大学区第一番中学と呼ばれた同校でアメリカ人教師ホーレス・ウィルソン氏(一八四三~一九二七)が学課の傍ら生徒達に野球を教えた。この野球は翌七三年に新校舎とともに立派な運動場が整備されると、本格的な試合ができるまでに成長指した。これが『日本の野球の始まり』といわれている。(後略)」と記されている。
しかし、この当時はボールやグローブなどの用具も満足できるようなものは何1つとしてなく、現在のように2チームが、お互いに得点を競い合うゲームの形はまだ取っていなかったようだ。南校で行われていたスタイルにしても、ピッチャーがワンバウンドで投げたボールをバッターが打ち、思い思いの場所に散らばった学生たちが素手でボールを追いかけ、ボールを捕った学生が次のバッターになるといった、いまでいうノックのようなものだったらしい。
それでも当時の学生たちは雨が降っていても蓑や笠をかぶって、何時間でもボールを夢中で追いかけていたという記録が残っているほどだから、ベースボールという異国生まれの球技に彼らがいかに魅せられ、熱中していたかがよく分かるだろう。
南校で野球熱がいちだんと高くなったのは、アメリカに留学し、現地で本場のベースボールを体験してきた木戸孝正(明治・大正期の東宮侍従長)、牧野伸顕(政治家。外務大臣などを歴任)の2人が1874(明治7)年に帰国して南校に入学。学生たちと一緒にプレーを楽しむようになってからだといわれている。この時、木戸はアメリカ土産としてボールを持ち帰ってきており、学生たちを大いに喜ばせた。
ところが、当時のボールは、現在のものとは比べようもないほどのとんでもない粗悪品だった。そのため、縫い合わせてあった糸がプレー中にほころんでしまうこともしばしばで、そのたびにプレーを中断して選手全員で修理をしてからまた再開したという、現在では考えられない笑い話のような実話も伝わっている。
さらに、1873(明治6)年にはA・ペーツという人物が東京・芝にあった開拓使仮学校で、また、1874年(明治7)年から1877(明治10)年まで開校していた熊本洋学校では、L・L・ジェーンズという宣教師が学生にベースボールを指導したという記録も残っているから、ほとんど時を同じくして日本中で野球が始まったといってもいいだろう。
また、1885(明治18)年には文部省体操伝習所の教官を務めていた坪井玄道、田中盛業の2人の役人が「戸外遊戯法一名戸外運動法」という、テニスや2人3脚走、綱引きなど21種類のスポーツについて解説した書籍を出版した。
その中にも野球については、「ベースボールは其人をして健康と愉快とを得せしむるは他の遊戯に比して過ぐるあるも及ばざるなし(中略)之を好んで寝食を忘るゝものあり」とあるから、初めて日本に伝わってからわずか10数年のうちに野球が学生の間で始まり、そして全国に広まっていったことはどうやら間違いなさそうだ。
ちなみに、先に挙げた開拓使仮学校は北海道大学の前身で1873(明治6)年3月に開校した。その後、同校は札幌に移転し1877(明治10)年、札幌農学校と改称した。「少年よ、大志を抱け」で有名なあのクラーク博士が勤めていた学校である。ただし、クラーク博士が野球をやっていたという記録はない。
(つづく)