キャンプインで思い出す長嶋さんとの100メートル競走 【柴田勲のセブンアイズ】

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 プロ野球のキャンプが始まった。今年は例年以上に楽しみなルーキーが数多くいる。

 特に高卒ではロッテ・佐々木朗希投手、巨人・堀田賢慎投手、ヤクルト・奥川恭伸投手、打者では中日・石川昂弥内野手、阪神・井上広大外野手らだ。

 58年も前になるのか。私は1962(昭和37)年に高卒(法政二高)ルーキーとして巨人に入団。宮崎で初めてキャンプに参加した。学校の行事の関係で1週間遅れての宮崎入りだった。いまは各球団が1月から「新人合同自主トレ」を行って、キャンプ・インに備えさせるが、当時はそんなものはなかった。

 61年夏の甲子園大会後、肩を壊してろくに投球練習をしていなかった。母校のグラウンドでは後輩たちが練習している。そこへ割り込めなかった。

 で、キャンプ・イン後は2月中旬頃までランニングやキャッチボールで過ごしていたが、別所(毅彦)コーチから、「ちょっと投げてみるか」と言われて、ブルペンに入った。

 「甲子園優勝投手」だから戦力としてかなり期待されていた。でも、ちょっと投げると肩が痛い、腰が痛い。少し休むと、またよくなる。ボールがピュッと行く。いわゆる、休み肩だ。

 オープン戦に起用されて3勝0敗の成績を挙げた。その流れで開幕第2戦(阪神戦)先発が決まった。

 でも、開幕まで1週間前、別所さんに命じられて300球を2日間、投げ込まされた。こんなに投げたことがないから、肩が上がらなくなった。

 先発したけど、途中降板して敗戦投手になった。その後も投手として結果を出せずに打者に転向となった。

 当時は高卒でもすぐに大活躍する投手がたくさんいた。例えば稲尾(和久)さん、梶本(隆夫)さん、それに尾崎(行雄)と入団即20勝している。

 いま振り返ると、現場の監督やコーチは新人を気長に育てるというよりも「早く使ってみたい」という気持ちが強かったのだろう。当時の方針として当たり前だった。

 現在は各球団ともに「焦らずにじっくりと育てる」の方針が定着している。ことに高卒の選手はまず基礎体力を付け、ケガをしない丈夫な体作りに努める。私も大賛成だ。

 それに球団によっては大手の病院とタッグを組んで選手の健康管理にも留意している。いい傾向だ。

 それに私たちの時代といまではコーチの数も違う。私の巨人入団時の1軍コーチは3人だった。別所さんが投手コーチ、荒川(博)さんが打撃、それに牧野(茂)さんが守備・走塁を担当していた。

 いまは各球団とも1、2軍合わせて20人くらいはいる。よき指導者と巡り会って長所を伸ばしてほしい。

 ところでキャンプとくれば、見に来てくれた地元ファンへのサービスだが、私も1年目にやった記憶がある。

 練習中に雨が降ってきた日のことだ。川上(哲治)監督が満員の観客に向かって、「これから新人の柴田と巨人で1番足の速い長嶋(茂雄)が100メートル競走をやります。陸上競技場へどうぞ」とアナウンスした。

 アトラクションだ。私は「エッ」と思ったがやるしかない。長嶋さんはスパイクだったけど、私は普通の運動靴だった。それでも私が勝ってしまった。

 高校時代、100メートルを11秒3で走っていた。50メートルまでなら陸上部員に負けなかった。

 川上さんには投手から打者転向、しかもスイッチを勧められたが、この時の足の速さ、それに中学時代に一時期、左で打っていたことも知っていた。これがインプットされていたのかもしれない。

 最後になるが、新人くんたちは慣れないキャンプで慌てることもあるだろう。だが、指導者たちはしっかりと見ている。自分の課題に素直に向き合って伸び伸びやってほしい。

柴田勲(しばた・いさお)
1944年2月8日生まれ。神奈川県・横浜市出身。法政二高時代はエースで5番。60年夏、61年センバツで甲子園連覇を達成し、62年に巨人に投手で入団。外野手転向後は甘いマスクと赤い手袋をトレードマークに俊足堅守の日本人初スイッチヒッターとして巨人のV9を支えた。主に1番を任され、盗塁王6回、通算579盗塁はNPB歴代3位でセ・リーグ記録。80年の巨人在籍中に2000本安打を達成した。入団当初の背番号は「12」だったが、70年から「7」に変更、王貞治の「1」、長嶋茂雄の「3」とともに野球ファン憧れの番号となった。現在、日本プロ野球名球会副理事長を務める。

週刊新潮WEB取材班編集

2020年2月3日掲載

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