原発事故10年目の「福島県飯舘村」:篤農家が苦闘する「土の復興」はいま
1月初め、常磐自動車道を南相馬インターで降り、阿武隈山地に分け入る峠道を越えて福島県飯舘村を訪ねた。
2011年3月の東京電力福島第1原子力発電所事故での被災から、間もなく10年目を迎える山村は、人けのない冬枯れの風景に眠っていた。
原発事故まで約6200人が住んだ村は、拡散した放射性物質による汚染のため政府から全住民の計画的避難を指示され、環境省の大規模な除染作業を経て、2017年3月末に避難指示が解除された(帰還困難区域の長泥地区を除く)。
現時点の登録人口は5467人。このうち帰還届を出した村内居住者は1392人と村のホームページにあるが、避難先だった福島市などにも家を持つなど二重居住の世帯も多く(固定資産税などは国が減免)、通年で暮らす帰還者はまだ少ない。村内で営業中の店は道の駅やガソリンスタンドなど一握りで、各集落には野積みされた黒い除染土袋の仮置き場がいまも居座る。
帰還した篤農家
菅野義人さん(67)。原発事故の翌年から取材の縁を重ねてきた農家だ。
同村南部の比曽地区で和牛繁殖を手掛けて成牛、子牛を40頭近く飼い、放牧地と採草地は計10ヘクタール。コメは、水田2.4ヘクタールで「あきたこまち」を栽培した。標高600メートルと村一番の高冷地にあって冷害に強い良質米を育て、原発事故の前年には10アール当たり660キロ(11俵)もの収量を上げた篤農家だ。
しかし、いま水田の一部は仮置き場の下になり、手塩にかけて育てた牛たちも避難の際、わが身を切る思いで畜産市場の競売に出すほかなかった。
その日から帰還を誓い、比曽から近い二本松市内に避難しながら、住民の仲間やボランティアたちと地元の放射線量を測定し、再居住と営農再開が可能な除染方法を実験し、環境省の除染担当者たちに提案を続けた。
避難指示解除とともに妻久子さん(67)と自宅に戻り、農地の復旧に取り組んでいる。
その苦闘の歳月と、帰還後の開拓者のような暮らしを一昨年1月、菅野さんの次のような言葉とともに『「避難指示解除」後の飯舘村(上)』『(下)』(ともに2018年1月22日)で紹介した。
〈除染前だと、(放射線量が)家の前で6マイクロシーベルト、裏に回ると20マイクロシーベルトという所もあった。その仲間と支援者の人たちと一緒に、わが家の居久根(いぐね=屋敷林)の土や枝を除去して、粘土層まで深い穴を掘って埋設する実験もしてきた。放射線量を劇的に下げたし、地下水にも放射性物質が出ないことを継続的に証明できた〉
〈「農家の自分が何をやっているのか?」と思ったこともある。だが、他の誰がやるのか? 息子や孫にやってくれと言えるか? 線量を下げることが帰還のカギになるのなら、生かしてもらえる時間があとせいぜい20年だとしたら、自分たちが今やらなくては。60代の私たちの世代の責任であり、使命なんだ。できることを一歩一歩やっていくしかない〉
帰還からほどなく3年――。
菅野さんの暮らしはどう変わったのか。苦闘は続いているのか。
現れぬ地元の担い手
この朝、比曽に向かう山あいの道は半ば凍結し、かつて水田の緑で埋まった小盆地は仮置き場を抱えて荒涼たる枯草色に染まり、空から小雪が舞っていた。
住民の姿が見えない集落の高台に、菅野さんの自宅がどっしりと立つ。1912(明治45)年建造の大きな木造民家を、宅地除染を終えた後の5年前に解体し、杉、ヒノキの太い柱や梁をそのまま生かして白壁と焦げ茶色の板壁、黒い瓦屋根の家へと改築した。「再生」の決意を込めて。
菅野家の歴史は1607(慶長12)年にさかのぼる。比曽で初めて居を構えたのが15代前、他国から改易された菅野但馬という武士だと伝わり、江戸時代は相馬中村藩の下で代々「肝入」(名主)を務めた。
高冷地の開拓、営農の難儀は現在の比ではなく、餓死病死逃散で藩内人口が3分の1に減った1780年代の天明の飢饉では、当時91戸の比曽村で残ったのがわずか3戸。そこに菅野家の先祖がおり、荒れ果てた比曽で再び開拓の鍬を振るった。
〈それが復興の原点。先人の労苦を思えば、乗り越えられない困難はない。原発事故もまた歴史の試練と思い、帰還以外の選択肢は自分になかった〉
と、以前の取材で菅野さんは語った。
原発事故前の比曽の行政区には85戸の住民がいた。避難指示解除の後、菅野さんの夫婦を含めて7戸が帰ったと聞いていたが、その後、村役場に帰還の届け出をしたのは20戸に増えたという。
しかし、避難前の農業に復したのは菅野さんと、長年地域づくりの盟友で共に除染実験にも挑み、花のハウス栽培を再開した農業菅野啓一さん(65)を含め4戸しかいない。
「実際に住民が戻ってきている家は12~13戸程度のようだ」
菅野さんはカラー刷りの「比曽行政区 作付再開計画図」という、昨年10月付の資料を見せてくれた。
村民の帰還と営農再開のための土地利用が進まない現状から、村役場は「意欲ある担い手への農地集積」を急ぎたい意向で、各行政区に「住民の意向をまとめてほしい」と要請したという。その聞き取り結果を地区の農地図に反映させた資料だった。
菅野さんは2年前、福島県の農業部局の担当者から、
「県としては、(2020年の)東京オリンピックまでに被災農地の60%で営農を再開させる目標がある」
という話を聞いていた。
なぜ東京オリンピックなのかは不明だったが、村の担当者からは「担い手への農地集積は国策」という話も聞かされた。県が設けた「農地バンク」(農地中間管理機構)を通じ、農地貸し付けに協力する農家に10アール当たり1万3000~3万1000円の「地域集積協力金」が出るという(現在は5000~2万8000円)。
さらに、もはや農業をしないと決めて農地を貸し出す住民には、1戸で上限50万円(2021年まで)~25万円(2022年以降)もの「経営転換協力金」が支給される手厚さだ。
本来、意欲ある担い手が同じ地区内で農地を集めるのが理想で、地域の復興にかなう方策ともなる。しかし、見せられた「作付再開計画図」では、「貸したい農地」を示す赤が大半を占め、ほかには「自分が作付けして管理していく農地」の黄色、「未定の農地」の緑があるだけ。
個別の理由は、
「自分は花作りをし、田んぼは貸したい」
「息子が退職後に就農するので、貸さない」
「(協力金だけで)借地料をもらえないので、貸さない」
などさまざま。
分かったのは、肝心の「借りて集積したい」という意欲ある農家が地元にいないことだった。
復興いまだ始まらず
避難指示の解除以来、昨年まで飯舘村で稲作を再開したのは、農家25人と1つの農業法人。栽培面積にすると、主食米が28.7ヘクタール、牛や豚の飼料米が13.6ヘクタール。村内で471戸の農家が計690ヘクタールの水稲栽培をしていた原発事故前と比べると、再開は、村全体でもいまだ1割に満たない。
2017年11月19日の拙稿『「食用米」復活へ模索続ける「飯舘」「南相馬」の篤農家たち』で紹介した同村八和木地区の高野靖夫さんのように、避難中から自宅の水田に通って栽培実験を重ね、帰還と同時に食用米作りを復活させて出荷している人もいる。
だが食用米に関しては、いまなお「風評」を懸念し、自家消費分として作っている農家が多数だ。
菅野さんは、今回の農地集積について、
「村内に担い手7~8人の農業法人があり、そこが(集積した農地の)受け手になって飼料米やホールクロップサイレージ(稲発酵粗飼料)用の稲を作る見込みだ」
とも村の担当者から伝えられた。
飼料米は、国内のコメ余り対策と高騰する輸入飼料の国産化を兼ねて、農林水産省が10アール当たり積算で8万〜10万5000円もの補助金を農家に出して生産を促しており、一昨年には全国で約50万トンに達した。
同省は「飼料業界の需要量が約120万トンある」として、それを2025年の生産目標にする、と食料・農業・農村基本計画で決定している。
とりわけ原発事故の被災地となった福島県相馬地方では、地元農協も、
「風評被害の影響が少ない飼料用米の生産拡大が効果的な対策」(JAふくしま未来)
と増産を奨励。
飯舘村に隣接する南相馬市では昨年、水稲栽培が原発事故前の作付面積の半分を超えたばかりだが、その3分の2が飼料米だ。
「風評の心配だけでなく、天候不順などでコメの等級が落ち、青米(未熟粒)や虫食い米が出ても、飼料米は『量』で買ってもらえるのでリスクが少ない」
という農家の本音を、以前の取材で聞いた。
1月20日の『河北新報』は、『「天のつぶ」食卓遠し』の見出しで、福島県の目玉品種「天のつぶ」の栽培が飼料米用に偏り、主食米用の作付が昨年、県内で前年の4800ヘクタールから3600ヘクタールに落ち込んだと報じた。
飯舘村でも、稲作復活の先行きはまだ見えない。
前述の比曽地区の花作り農家で、農地集積に携わる村農業委員会の会長でもある菅野啓一さんは、
「ほとんどの水田は除染で表土を剥ぎ取られた後、環境省が応急の『地力回復工事』(営農再開支援としてカリウムなどの基本肥料、放射性物質の吸収抑制効果がある土壌改良材ゼオライトを投入した)をしたままの状態」
と言う。
「国の基盤整備(水田の再整備)事業を待たなくてはならず、そのためにも地区ごとの農地利用の意向取りまとめが必要だった。それからが準備スタートで、村挙げての基盤整備事業となれば何年掛かるのか、まだまだ分からない」
飯舘村ではこれまで莫大な国の復興予算が投じられ、学校とスポーツ施設整備に約50億円、新公民館に約11億円、道の駅に約14億円など、そのたび「復興のシンボル」と称された大きな「箱もの」施設が建てられ、復興大臣らが来村しての華やかな祝賀イベントが催されてきた。
しかし、村民本来の生業の土台である農地を見れば、「復興」はいまだ始まってもいないのが現実だ。
無数の石との闘い
菅野義人さんが真冬も休まず、 除染後の再開墾を続けている最中の農地を見せてもらった。
自宅の裏山の斜面を切り開いた約2ヘクタールの採草地が、環境省の除染作業で表土を剥ぎ取られ、その跡に見渡す限り露出したのは石。淡い積雪の間にごろごろと並ぶ大きな石だった。直径50センチ前後から1メートルを超えるものまである。
除染作業の重機で固まった土壌をとりあえずトラクターで破砕し、さらに深耕し、反転させ、除去すべき石ごといったん掘り起こした状態だという。
除染後の農地は本来、営農再開が可能な状態にして農家に引き渡されるのが筋だが、菅野さんは除染作業中の2016年、環境省の現場担当者から、
「こちらの仕事は放射性物質の除去で、農業再開ではない」
と言われた。
石礫の除去も担当者に再三交渉し、いったんは作業の一環として撤去を約束させたものの、途方もない量のため人力では追いつかず、結局は一部のみで放棄されたという。
引き渡しを受けた2018年の秋から、たった1人での再開墾に挑んだ。
露出した石の大きなものには、赤いスプレーで丸の印が付けられている。
「自家用のバックホー(ショベル付きの小型重機)で1つ1つ捨てるしかない。30センチ前後の小さなものは、春になったら国の営農再開支援事業を利用してストーンピッカー(トラクターに装着し、石を土ごと掘り出してふるい分ける機械)の作業を委託する予定だ」
と言う。
「この土地では、先祖の昔から、開墾は石との闘いだったんだ」
膨大な石を取り除く作業は、しかし、「土づくり」による農地復興の始まりでしかない。
除染された農地が引き渡された後、菅野さんが真っ先に行ったのは土質分析だった。放牧地、採草地、畑、水田の計7カ所の土を採り、pH(酸性、アルカリ性の強弱)や保肥力、窒素、カルシウム、リンなどの多寡を調べ、それぞれに適した施肥など、土壌改良の方法を考案した。
しかし、病み上がりの人に栄養剤だけを与えても体力が戻らないように、石を取り除いて深耕した農地を健康に肥やしていくにも方法がある。
菅野さんは石灰散布などとともに、実質的に1年目だった昨年の春から土地の再生を始めた。5月中旬にヒマワリなどをまいて育て、夏に細断し、すき込んだ。9月には燕麦などをまき、晩秋から初冬に再々度細断してすき込みを行った。
「いままでに開墾し土づくりを始めた農地は6ヘクタールほどだが、少しずつ土の色が変わってきたのが分かる。原発事故前は、牛舎から出る稲藁の堆肥を土にすき込み、新しい稲藁を牛舎に入れ、自然な土づくりの循環があった。
営農再開支援事業は来年度いっぱいで終わるが、地力を健康に回復させるには3年、5年をかけて、さらに深耕とすき込みを重ねる努力が要る。
「自腹を切っても続けていかねば」
と、菅野さんは決意を新たにする。
なぜ土づくりが必要なのか――。
もう1つの理由は、「農地は1000ベクレル(土壌1キロ当たり)未満」という村の当初の除染目標にもかかわらず、環境省の除染作業が終わった後の表土近くから、目標を超える濃度の取り残しが見つかっているからだ。
避難指示解除の翌2018年12月、比曽での村の土壌採取で、遊休農地の一部から検出された、と行政区に伝えられたという。
「地力回復工事で十分な吸収抑制材が施され、影響はないだろうが、農業再開を急ぐ前に、できる限りの深耕による土壌改良を広める必要がある」
と訴える。
地域の「共助」の喪失
昨年10月12日、福島、宮城両県の太平洋岸を中心に大水害をもたらした豪雨。比曽地区でも、地域の真ん中を流れる比曽川が増水し、地元で水田の基盤整備が完成した1985年以降で初めて土手を越えて周囲に溢れた。
民家への浸水はなかったが、あらためて住民による管理の不在を、菅野さんは考えさせられたという。
比曽川は集落の水田への水源であり、
「原発事故前は、85戸から1人ずつ共同作業に出て、朝5時から河川土手や水路の草刈りや清掃をし、雑木1本も生えていなかった。だがいまは、帰還した一握りの住民だけの手には負えない」
村役場と行政区の懇談会では、
「比曽川は県管理の二級河川なので、草刈りなども県にお願いするほかない」
という話になった。
県の営農再開支援事業では、農地の維持管理のための草刈りに10アール当たり6000円(年3回まで)を交付している。そのため、帰還していない住民も自らの田畑に通って草刈りをしているが、住民総出の共同作業は、お盆前の墓地の草刈り以外に絶えてない。
「村と行政区の懇談会ですら、住民の参加者はわずか3人だった。昨年3月の行政区の総会でも、役員選出の議題になると、帰還していない住民から『移住先でも自治会の役員をやってくれと言われている。この上、地元でもやれと言うのか』との声が上がった。しかし、われわれからすれば、地元に戻った人間の負担だけで地元を担うのは困難だ」(菅野さん)
比曽地区では、地元に4社ある神社のお祭りも原発事故以来、途絶えたまま。せめて1社だけでも、地元のために復活させられないか、と菅野さんら総代を務める住民で話し合っているという。それもまた、地域を支えた人のつながりが切れかけた村の現実だ。
飯舘村はかつて、丁寧な手作りを意味する「までい」の村興しで名を馳せた。住民の共助が盛んな地域の力が、村の自立を支えた。
だが、伝統の「共助」が失われたまま国の予算のハード事業が先行する村のこれからを、菅野さんは見通せないでいる。
一方、飯舘村の佐須地区。
1951年に佐須小学校として建てられ、1977年の閉校後も住民の活動の場になってきた木造の旧校舎と体育館が昨年暮れから解体され、いまは旧校舎の骨組みだけが最後の名残りを留める。
住民たちは懐かしい教室に囲炉裏を設けて地域づくりを語り合い、農業祭や創作太鼓などの演芸、折々の集いを催し、避難指示解除後は、帰還した年配者たちの健康づくりの交流会をNPO法人「ふくしま再生の会」が毎月開いてきた。
昨年3月には、環境と景観を生かして、農村宿泊の誘致事業に集落で取り組む「佐須行政区地域活性化協議会」が発足し、旧校舎と体育館がその活動の拠点になるはずだった(2019年3月4日『飯舘村「オオカミ信仰」の里で始まった「人と人の交流」の地域再生』(上)、同月11日(下)参照)。
ところが、老朽化を理由に解体の意向が村から持ち上がったといい、昨年10月の住民総会で、賛成の声が大勢となって解体が決まった。
閉校後の維持管理費は地元の全戸が負担してきたが、最後まで維持を望んだのは、帰還して日ごろ楽しみに利用してきた年配者たちだった。
「多数決で地域のことを決める村ではなかった。互いに耳を傾け、夜を徹してでも知恵を出し合ったものだが……」
福島第1原発事故から、間もなく9年。
「までいの村」の行方に戸惑う村民の声を、筆者は聞いた。