灼熱――評伝「藤原あき」の生涯(85)
昭和29(1954)年の大晦日、義江は日比谷公会堂の舞台に立っていた。
『第5回NHK紅白歌合戦』に白組の歌手として出演し、その模様はテレビジョンで放送されている。
前年の2月から『NHK』の放送が始まり、続いて8月に民放初の『日本テレビ』が開局している。今まではラジオのみで放送してきた『NHK紅白歌合戦』に、第4回から初のテレビ放送が加わった。
「赤勝て!白勝て!」
の賑やかな紅白が終わると画面は一転、静寂の中に鳴り響く除夜の鐘を中継した。
開局当時のテレビ受信契約数は866、翌年には1万を突破し、義江が紅白に出場した次の年には5万を突破していくという急激な勢いを持つテレビジョンを無視できないものだということは、アメリカ滞在の経験から義江は誰よりもわかっているつもりだ。
義江には芸術家としての矜持がある。オペラ歌手というものは生の舞台で力を発揮するものなのだ。映画やラジオやテレビなどというものは、あくまでも舞台の宣伝媒体にすぎない。
昨年は借金を土産にアメリカ公演からの帰国中だったため、今回が初出場となる。
唄うのは、昭和3(1928)年にビクターの赤盤として発売した『鉾をおさめて』。作詞・時雨音羽、作曲・中山晋平、「我らのテナー」と呼ばれ「藤原節」をふりまいていた全盛の頃の楽曲だ。鯨捕りの男を歌うこの曲はオペラ一色の今の義江には違和感のある楽曲ではあるが、お茶の間へ披露するには最適の曲と『NHK』側が選んだ曲だ。
果たして義江はブラウン管の前の人々を魅了した。
藤原義江という名前は知っていても、初めて顔を見た人の方が圧倒的に多い。
貴公子のような顔だちに長いもみあげの渋みがかかり、意表をつく高い声と印象的な歌い方に、子供達もさっそく真似た声を出す。年配の者たちは懐かしのメロディに酔いしれた。
最近の義江の密かな悩みの「声」については、うまくカバーできたつもりだ。持ち歌の1曲であれば、長年の経験と知恵で十分補えるというものだ。
「ああ、終わった終わった。除夜の鐘だ。赤勝て白勝てってどっちでもいいってもんよ。俺に憧れてオペラ歌手を目指した藤山(一郎)くんもすっかり歌謡界の重鎮だ。それに『三人娘』だ? 確かに皆、歌がうまい。声楽を勉強しただけのやつらと違って、お客を惹きつけることにも長けている。特に自分と同じ初出場の美空ひばりは抜きん出ている。ただ、あの紅白という学芸会然とした雰囲気がどうも俺には気にくわないってもんよ」
義江はミラノ「スカラ座」、パリ「オペラコミック座」、ニューヨーク「メトロポリタン歌劇場」という憧れた舞台、縁のあった檜舞台を思い出しながら興奮気味の心を静めようとするが、テレビとともに勢いづく日本の芸能界の変化を少し怖いと思った。
「俺は藤山くんのようにみんなに感じよくはふるまえんな。第一、お茶の間お茶の間っていう言葉が性にあわねいな。お茶の間にタクアンにオペラかい?」
最近周囲からは「藤原旦那(ダンナ)」と呼ばれる義江が赤坂氷川町の藤原歌劇団に帰って悪態をついてみたものの、テレビジョンの効果は絶大で、方々から「紅白見ました」と声をかけられるようになった。
数千人にとどまる日本のオペラファン拡大にはテレビという選択も1つあるのだなとは感じるが、義江はこういった日本の「芸能界」の中にいると終始居心地の悪さを拭えなかった。
翌年の紅白にも出場するが、その際は義江の希望が通りオペラからの楽曲を披露した。ヴェルディの『リゴレット』から『女心の歌』を日本語訳で歌った。なじみのあるメロディに高音の声が乗り、ダンディで品格のある身のこなし着こなしは、圧倒的な存在感を示した。
義江の紅白歌合戦出場は第4回と第5回での2回のみだ。日本の芸能界に寄り添い自分の居場所を作ることは義江にとって簡単なことでもあったが、ここは自分の居場所ではないと距離ができていく。
「映画のスクリーンよりも寸断に小さい箱から見える映像がなんだってんだ」
映画もいくつか主演してきたが、こちらも好きになれない代物だった。
いまでは『You tube』などで戦前の義江出演の映画を確認できるが、恐ろしいほどに棒読みの俳優・藤原義江がいる。
「オペラは歌とアクト(演技)」
と人に指導してきたにもかかわらずこの演技は、よほど乗り気でなかったのがわかる。
あきである。
義江とは対照的に、テレビジョンの女神から手を差しのべられることになる。
新年早々海外出張から帰国し引っ越しもすませたあきは、忙しくも充実の日々を送る。
「資生堂美容部長」として、チェーンストアの女主人への講演や美容部員に対する教育、渋谷と銀座に出店予定の美容室「資生堂グランドビューティーパーラー」の準備に追われていた。
その仕事の合間をぬって資生堂美容部長としてラジオ出演もこなし、ふんだんなおしゃれの知識を披露する。
「放送時間は13分でございますから、お原稿は8枚ほどで丁度よろしいと思います」
『NHKラジオ』の係からこう言われて書いた原稿を、時間内に収まるように家で読み上げて練習してみる。
しかし、自分の喋りを録音で聞いたあきは、嫌な後味をいつも感じてしまう。杓子定規で心がないように聞こえる。
目の前にいるアナウンサーをお茶の間で聞いている人だと思って対話するように話そうと自分なりの答えを出せたのは、もう何度もラジオ出演をしてからだった。
ラジオの聴衆にわかりやすい言葉を選んで原稿も書くようになった。
ひとり生きることに不利な立場を認識するあきは、与えられた仕事に全力投球だった。
淋しいと思う時がないと言ったら嘘になるが、毎晩のように夫の帰りを待ち、帰ってきたらきたで「今日も嘘をついているのではないか」という猜疑心ばかりの毎日よりも、クタクタになってひとりの部屋に戻り、体を横たえるその時を楽しむ方がよっぽど気持ちが澄んでいる。
そんなある日、『NHK』演出家の樋口徹也が銀座の資生堂社長・伊与田のもとに面会にやってきた。
「ということで、御社の美容部長の藤原あきさんに、4月から毎週月曜の夜の番組に出演いただきます」
「うちの看板娘ですから、どうぞ宜しくお願いしますよ」
と伊与田は笑う。
「はい、うちの古垣(NHK会長)も大変喜んでおります」
「元々、藤原部長は古垣会長のご紹介ですからね。またこういった形でNHKさんに恩返しできれば幸いですよ。しかしすごいですな、テレビジョンというものの勢いは。どこに行ってもテレビジョンの話ばかりだよ」
「はい、これからもっと話題になっていくと思います」
テレビジョンがあきに目をつけたのは半年前にさかのぼる。
すでにテレビでは大相撲、プロ野球、高校野球のスポーツ中継を行い話題をさらっていた。
そしてテレビ独自のクイズ番組として『ジェスチャー』が誕生した。テレビならではの「目で楽しむ」番組に大人から子供で夢中になっていた。
『ジェスチャー』に続いていくようなクイズバラエティー番組をこれからどんどん作っていかなければならないというのは、『NHK』に与えられた使命だった。
藤倉修一は大正3(1914)年生まれ。法政大学を卒業し、呉服屋の若旦那からアナウンサーとして昭和15(1940)年に『NHK』に採用された。
ラジオドキュメンタリー番組『街頭にて』の「ガード下の娘たち」で名をあげ、数々の体を張った街頭録音で市井の生の声を引き出していく。クイズ番組『二十の扉』では、藤倉が回答者に言う「ご名答」は流行語となった。
そして戦後、昭和27(1952)年からイギリス『BBC』(英国国営放送)への委託となり帰国したばかりだった。
日本に先立ってテレビ放送が戦前から始まっているイギリスの人気テレビ番組『DOWN YOU GONE! 』からヒントを得た、文字合わせのクイズ番組『いろはパズル』を考案した。
演出の樋口徹也と組んでテスト版を作り、レギュラー解答者の候補として、画家で通人の増田義信、作曲家の団伊玖磨、そして藤原あきを推薦した。
3人の回答者候補は何度も『NHK』に足を運び、番組のオーディションに参加した。内部審査も通過しいよいよだという時、諸事情で番組は取りやめになってしまった。
提案者の藤倉は回答者候補の3人に申し訳ない気持ちでいっぱいになった。
「特に藤原先生と別れて悶々としているおあきさんだ。せめてお気の毒な立場にあるおあきさんだけでも何か他の番組に出演するチャンスはないものだろうか」
藤倉があきを回答者に挙げたのは気の毒な立場からの同情だけではもちろんない。
あきの情熱を秘めた優雅な容姿に大正時代の名流夫人九条武子の面影を重ね、普段からの生粋の東京人らしい話し方に機転のきく受け答えも魅力だった。
ポシャってしまった『いろはパズル』とは違い、演出の樋口が強く推す『私の秘密』はトントン拍子に社内考査を通り、新番組として放送されることになった。
藤倉は樋口に、
「今度こそおあきさんをよろしく頼むよ」
と何度も釘を刺した。
正式決定となり、番組プロデューサーとなる樋口が正式に資生堂本社へ挨拶をしに行き、あきを紹介する肩書きもそのままの「資生堂美容部長」ということの最終確認を整えた。
『私の秘密』は珍しい体験や特技、趣味、自慢を持つ一般の人々が登場し、回答者が4分間でその人の秘密を当てていくというクイズ番組だ。解答者と司会の高橋圭三の腹の探り合いのようなやりとりが番組の雰囲気を作っていく。
もとはアメリカのクイズ番組『I've Got a Secret』を参考として作った番組だ。
解答者は4人、うち1人はゲスト解答者で著名人が出演。番組後半は「ご対面」のコーナーとなり、人の歴史や人間模様を映し出していく。
あき以外のレギュラー解答者は、渡辺紳一郎に藤浦洸。
あきは2人と顔を合わせたと同時に、
「あら、本当にご縁がございますわね」
と意味深に挨拶をした。
2人とも藤原義江と親しい間柄だったからだ。
渡辺紳一郎は朝日新聞記者時代、ロシア出身のオペラ歌手フョードル・シャリアピン来日の際に義江と尽力した仲だ。
美空ひばりの『東京キッド』や『ラジオ体操の歌』の作詞家・藤浦洸は、義江の浅草オペラ時代に演出家伊庭孝の家で毎日のように夢を語った仲だった。
2人とも「海千山千の論客」とラジオを聴く人たちから言われている。
2人に挟まれるように座るあきだけがまだテレビに慣れていなかった。それに賭けてみたのがプロデューサーの樋口だった。
昭和30(1955)年4月、高視聴率を取り大人気を博していく番組は、その予感もないようにそっとスタートする。
場所は新設されたばかり、内幸町の「NHKホール」。
あきはテレビの影響力など何ひとつわからないまま、月曜日は会社に行かず昼過ぎに「NHKホール」に行けばよいと言われたことが女学生のように嬉しくなり、足取り軽く会場に入った。
打合せのあとに2階の化粧室で顔に化粧をほどこされる。藤原歌劇団の時は義江や女性歌手のメーキャップを手伝ったものだ。それが自分にメイクがされているというのは、くすぐったい気分だ。
いよいよ番組開始の7時半が近づくと、係に促されてあきは階段を降りて舞台に向かう。こんなに胸がワクワクするのは、いつ以来なのであろう。
舞台の袖で待機する。
番組開始直前「藤原あきさんです」と司会の高橋圭三が言うと同時に、舞台下に立つ係りが丸められた台本をかざしクルクル回すと、どっと拍手が起こる。
舞台に進んだあきは軽く一礼して自分の名前が書かれた席に座る。
観客の数に圧倒され、上から当たる煌煌としたライトに戸惑う。
歌劇団の舞台で毎日のようにみていたライトでも、自分に当てられていると思うとその感じはまったく違う。
4人の回答者が所定の椅子に座り、司会から観客に対してすべての説明が終わると、本番直前の静寂に包まれる。時計の針が7時30分を刺すと同時に、ゆったりと品のよい番組テーマ曲が会場を包む。
さあ、ついに番組が始まった。(つづく)