読売新聞は十分にやっていける――渡邉恒雄(読売新聞主筆)【佐藤優の頂上対決/我々はどう生き残るか】
あまりに名高い「読売のドン」である。朝日、毎日の後塵を拝していた同紙をトップに導く原動力となり、社長としては部数を1千万部に乗せた。一方、政治記者としては、政治家たちと深く交わり、政策にも政局にも絡んで政治の方向性を決めてきた。御年93歳、ナベツネの回想。
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佐藤 盟友だった中曽根康弘元首相が亡くなりました。渡邉さんは、「親の死と同様のショック」という悲痛なコメントを出されていました。
渡邉 もう1年以上前になるのか、最後に僕の所へ来た時には、耳が遠く、自分では歩けず車椅子だったね。連れてきた秘書が耳元で、僕が話すことを大きな声で伝えている。話をするには通訳が必要だった。
佐藤 101歳でお亡くなりになっていますから、100歳前くらいの時ですね。
渡邉 中曽根さん、晩年に自宅でひっくりかえって右腕の骨を折ったんだ。その頃ステッキがないと歩けなくなっていて、それを持つ肝心の右腕が折れてしまった。そのあたりから具合が悪くて、だんだん外に出なくなった。中曽根さんもそうだったけれども、93歳になると、最初に耳が遠くなる。その次は足だ。僕も中曽根さんに似てきたな。
佐藤 いやいや、しっかりされていますよ。
渡邉 彼が陣笠代議士、僕が平記者の時からの付き合いだよ。いろいろ話をしたけれど、中曽根さんは全部、政治の話だ。彼と猥談をしてもダメ、興味ないんだよ。奥さん一筋で、二号さんを持たない政治家は、彼と安倍総理くらいのものじゃないかね(笑)。
佐藤 それだけ政治に集中していたということでしょう。
渡邉 そうなんでしょうね。家族はとても仲良しだった。昔は、議員宿舎の8畳1間に親2人子供3人と女中さん1人の6人で暮らしていた。お金がないから料亭に行けなくて、夜、女中さん起こして、彼女の布団の上にお盆を置いて、その上に徳利を載せて飲んだ。そばじゃ子供がスヤスヤ寝てる。ある時、中曽根さんがベルサイユ宮殿のような豪華な所に引っ越したから来てくれ、というので行ってみたら、新しい議員宿舎で、8畳6畳4畳半と三つの部屋があった。それでベルサイユになっちゃうんだからな。
佐藤 質素だったんですね。
渡邉 それでいよいよ大臣になる時に“豪邸”を建てたという。行ってみたら建坪40坪ほどの普通の家だ。箱庭のような池があり、そこに金魚が4、5匹泳いでいた。お嬢さんによれば、中曽根さんは、政治家は小さな借家に住まなきゃいけないと言っていたそうだけどね。その後、総理になるという時には、長嶋茂雄君の家を借りて住んだね。最初、長嶋君は、政治家は嫌だと断ったんだ。そこで何とかしてくれないかと中曽根さんに頼まれた。だから長嶋君に、政治家といっても俺の親友なんだから貸してやってくれよ、と言ったよ。
佐藤 田中角栄さんの目白御殿とはだいぶ違うわけですね。
渡邉 “豪邸”は、廊下もすれ違えないくらいの家だったな。
佐藤 そういう人だから、渡邉さんは中曽根さんが好きなんでしょう。
渡邉 まあね。若い頃は毎週土曜に読書会をしていた。週に1冊、僕が読んで報告し、それについて議論する。1年で四十数冊だね。政治学の論文みたいな堅い本ばかりだ。お互い相当に勉強になった。彼と学者を呼んで、食事会もずいぶんしたよ。
佐藤 それが政治家の作った本格的なシンクタンク、世界平和研究所につながるわけですね。
渡邉 カントでもヘーゲルでも、僕が読みなさいと言うと、中曽根さんはみんな読むんだ。まあ、あれほど勉強家の政治家はいなかったね。
佐藤 渡邉さんは読書会だけでなく、中曽根さんの政治そのものにも大きく関わっていらした。
渡邉 訃報を聞いて思い出したのは、「死んだふり解散」だね。
佐藤 1986年の衆参同日選挙になった時ですね。
渡邉 中曽根さんは同日選挙を諦めていたけれども、改正された公職選挙法などを僕が精査して、この日なら同日選ができると中曽根さんに言ったんだ。首相官邸に裏から入って、2人だけで話した。絶対勝つから、死んだふりして、ある日突然やろうと。ただし金丸信には言ってはいけない、口の堅い官房長官ならいい、とそんな話をしたな。
佐藤 自民党の圧勝でした。
渡邉 勝ってよかった。負けたら何かで責任取らなきゃいけなかった。
佐藤 僕はかつて外務省でロシア関係を担当していましたが、中曽根さんはうまくゴルバチョフを引き寄せることができた。北方領土は今に至るまで、日本とロシアの主張が平行線でしょう。それを、平行線のままでもいつか遠い先で交わることがある、とゴルバチョフ相手に口説いたんですよ。
渡邉 そんなことがあったかね。
佐藤 平行線は、曲面上ならどこかで交わるというリーマンの幾何学を念頭に話したのだと思います。だからすごい教養人だと思った。
渡邉 中曽根さんはゴルバチョフのソ連ともうまくやったし、韓国ともいい関係を築いた。総理として初めて訪韓した際には、韓国語を勉強していたな。
佐藤 言葉から入った。
渡邉 そんな俄(にわ)か勉強で大丈夫かと思ったら、韓国へ行って、韓国語で歌を歌ってきたらしいんだ。
佐藤 それはうまいやり方ですね。
渡邉 風呂場で一所懸命に練習したみたいだね。熱心なんだよ。そんな面倒なこと、普通はやらないよ。
日韓交渉の前衛に立つ
佐藤 韓国といえば、渡邉さんを抜きに日韓関係の歴史は語れません。日韓基本条約(65年)のお膳立てをされた。
渡邉 国交がなかったから、大使館もない。そんな時代に金鍾泌が韓国からやってきた。
佐藤 KCIA(韓国中央情報部)の長官ですね。朴正熙のクーデターの立役者でもある。
渡邉 あの時(62年)、新聞各社が面接をして、僕が最後だった。後がないから1時間以上やったんですよ。同じ1926年生まれ、同じ時代を生きてきて、似てるなぁということで話が盛り上がった。それで韓国に来てくれというから、まず最初は内密に1人で行って、2度目は自民党副総裁の大野伴睦を連れて行ったんだ。あの頃は大統領以下みんな親日だったね。朴正熙は満洲国軍軍官学校を出て日本の陸軍士官学校に行っているし、金鍾泌の兄の奥さんは日本人だ。対日コンプレックスがない。だから僕は金鍾泌に聞いたんだよ。あなた方の国民は36年間の占領統治の時代の恨みは忘れないと盛んに言っているけれど、あなたはどうなのか、と。そうしたら、我々のおじいちゃんやお父さんのいがみ合ったことを子供や孫の代まで引き継いでいがみ合うことくらい馬鹿々々しいことはない、僕は36年間を水に流します、と言うんだ。僕はびっくりして大野伴睦にこれを話したんだ。
佐藤 大野伴睦は、反韓だったでしょう。
渡邉 そう。終戦後に地元の岐阜で韓国人に殴られ、歯を何本か折っているから、恨みがある。でもそれを聞いて、そうか、日本で一回会ってみようということになって、2人は意気投合するんだ。それで韓国に連れて行くことになった。ソウルで夜、朴大統領(当時は国家再建最高会議議長)らと食事をしてね、大統領が2次会に行きましょうと、美女のいるところに連れて行ってくれた。
佐藤 それで韓国大統領と自民党副総裁が仲良くなった。その後、政治史に残る「金・大平メモ」をスクープされていますね。
渡邉 外務大臣の大平正芳があとの細かいことはやった。大平は官僚出身でもなかなかの人物で、大野伴睦に通じるところがあったね。彼も金鍾泌と仲良くなって、2人で国交回復のための「金・大平メモ」を作る。そこに具体的に無償供与がいくら、有償がいくらとあって、これが日韓基本条約の原型になった。僕は、金鍾泌から見せられたんだよ。でも、しばらくして金はこのメモを日本が履行してくれないと言うんだな。それで大平に聞いてみた。
佐藤 なぜだったんですか。
渡邉 池田勇人首相が許さんと言っているという。池田と大平の関係はよかったんですよ。でも政治家というのは恐ろしいものだね。大平が注目されるに従い、池田が大平を疎んじ、罵倒するようになった。それでメモの内容も許さないとなったらしい。大平は「ナンバー1はナンバー2に嫉妬する」と言っていた。だから僕も新聞社でナンバー2になった時にナンバー1に対して相当に気をつけたよ。
佐藤 読売新聞の部数を世界一にした務台光雄さんのことですね。そのことは今の安倍政権にも当てはまるかもしれない。
渡邉 そうだね、安倍さんと菅さんの関係もちょっと微妙でしょう。
佐藤 僕が見てきた中では、小渕(恵三)総理と野中(広務)官房長官の関係も微妙でしたね。
渡邉 この韓国滞在中、ホテルに戻ると、机の上にいろんなものが置いてあるんだ。全部、貢ぎ物。日韓国交回復を見据えて、韓国からも日本からも利権屋が殺到してきた。
佐藤 へえ。
渡邉 簡単に言えば、買収だよ。それでもう嫌になってね。この中にいてはこっちも傷つく。それで日韓国交正常化のために動くのをやめた。
佐藤 韓国と日本、どちらの利権屋の質(たち)が悪いですか?
渡邉 韓国だね。でも日本の方からもいろいろやってきた。びっくりしたのは、韓国に着いたら、瀬島龍三がいるんだ。
佐藤 当時は伊藤忠商事ですね。
渡邉 もともと大本営参謀だから利権に食い込むのもうまいんだよ。
佐藤 そうでしょうね。
渡邉 それともう一人、児玉誉士夫も韓国に来ていた。しかも韓国の軍服を着て現れたんだ。何だ、あんた、韓国軍に入ったのか、と思わず聞いたけどね。そうやって食い込む。
佐藤 たいしたものです。
渡邉 商人としてはね。
佐藤 ええ、もちろんそれは国家の利益とは違います。
渡邉 そうだよ。
佐藤 利権屋が絡んでくると、すっと引いてしまうところが渡邉さんですね。僕は、渡邉さんは前衛思想の持ち主だと思っているんです。
渡邉 前衛?
佐藤 共産党の前衛思想に限らず、何か社会を動かしていくには前衛指導的な人が必要です。
渡邉 なるほど。
佐藤 国交正常化ということでは前衛として活躍したけれども、利権が入ってくると、そこはもう前衛ではない。それなら辞めさせていただくということでしょう。
渡邉 まあ、そうだね。
佐藤 考えてみれば、渡邉さんは憲法改正議論の前衛に立っていらしたし、行政改革でも前衛的役割を担われた。渡邉さんの半生を振り返ってみると、前衛という言葉がぴったり当てはまると思うんです。
渡邉 そうかね。
いい時代だった平成
佐藤 そうした渡邉さんから見られて、平成の30年間はどんな時代でしたか。
渡邉 いい時代でしたよ。何しろ戦争がない。それに対して昭和は嫌な時代だったな。僕は大正15年生まれだから、昭和を全部味わった。戦争が始まって、負けて、負けた後の占領時代があって、ここまで来るのに日本人は相当努力しなきゃいけなかった。
佐藤 非常に重要な総括ですね。
渡邉 平成の間に日本が巻き込まれた戦争は一度もない。国際的にはマルタ会談があって冷戦が終結し、ベルリンの壁が崩壊した。いいことばかりだ。イラクのクウェート侵攻やアメリカのイラク攻撃があったにせよ、世界大戦は起きていない。
佐藤 私の父は大正14年生まれで、昭和20年の東京大空襲の後に召集され、南京と北京の航空隊にいました。
渡邉 そうでしたか。
佐藤 母は昭和5年、沖縄・久米島の生まれで、14歳で沖縄戦に従軍しています。
渡邉 僕は東大入学後、終戦直前に召集されて陸軍2等兵になった。軍事教練なんかで、何の理由もなく散々殴られたね。革のスリッパで顔をひっぱたくんだ。そうすると口の中が切れて、味覚がなくなるんだよ。味噌汁を飲んでいても水としか思えない。僕を殴ったのは、上等兵でも伍長でも軍曹でもない。もちろん将校でもない。同じ2等兵だ。ただ6カ月前に入隊したから上官というだけの2等兵に殴られた。
佐藤 理不尽な体験をされた。
渡邉 1等兵が上官に、丸太が積んである上で正座させられているのを見たこともある。あれは痛そうだったな。僕は軍隊にそういう記憶しかない。日本の軍隊は負けて当たり前だよ。部下が尊敬できる上官がいないのだから。
佐藤 その通りですね。
渡邉 僕は実際に軍隊で酷い目にあった最後の世代でしょうね。
佐藤 その渡邉さんが、戦後に反戦活動家とか平和運動家にはならず、日米同盟を重視して安全保障を第一に考え、現実路線を取られてきた。それはなぜなのでしょう?
渡邉 共産党に入ったからですよ。
佐藤 と言いますと?
渡邉 戦争が終わって、昭和20年末に共産党本部に入党届を持って行った。そうしたら地下にあったビラに「党員は軍隊的鉄の規律を厳守せよ」と書いてあった。何だこれ、ここも軍隊じゃないかと思ったね。もう入党届を出してしまったからすぐには脱党できない。だから1年半くらい党にいて、共産党東大細胞の中で「主体性運動」を起こした。マルクスやレーニンの本のどこを読んでも、人格的価値、道徳的価値が出てこない。マルクス・レーニン主義には、倫理的価値が位置づけされていないんだよ。それはおかしいんじゃないか、ということだね。
佐藤 マルクス主義は、カントを無視して、ヘーゲルを使って理論を組み立てていますから、人格的価値は出てこない。
渡邉 僕は片足は共産党にかけながら、もう片足はカントなんだ。共産党東大細胞による「東大新人会」を作って、社会主義学生運動の中にカント的人格主義を持ちこんだ。当時、フォアレンダーというドイツの哲学者の『カントとマルクス』という本が出て、それを読みふけった。やっぱり同じ疑問を持っている人がいるもんだと思ったね。でもカントとマルクスの融合は無理なんだよ。だからやっぱり共産党を出なきゃダメだと思った。まあ1年ほど、そういうことを書きまくって活動したから、除名だよ。共産党東大細胞は解散させられ、僕は本富士(もとふじ)警察署のスパイということにされてしまった。
佐藤 スパイ認定ですか。
渡邉 でも、あの頃はいい気になっていろいろやったな。あっちこっち行ってストライキを先導して、女学校を1カ月休校にさせたこともある。大きな板で校舎を封鎖した。女学生たちには授業を受けるなと言ってね。そうしたら僕たちに授業をやってくれと言うから、教師に代わって教えた。東大生はみんなモテたよ。
佐藤 渡邉さんは特にモテたでしょう。
渡邉 モテたね。それはともかく、終戦直後は戦前の支配者がまだいて、彼らが滅茶苦茶なことをやっていた。これは懲罰しなきゃいけないと、相当乱暴なこともしたよ。まあ、今になってみると後悔していることもあるんだが。
部数は下げ止まる
佐藤 そうした渡邉さんから見て、今の若者たちはどうですか。
渡邉 みんなおとなしくなったね。
佐藤 記者たちはどうですか?
渡邉 政局が安定しているから、政治記者にとって、今ほど楽で怠けていられるときはないよ。昔はこの内閣はいつ倒れるかって、常に考えていたから。
佐藤 読売新聞はどうですか?
渡邉 一時、1030万部までいって、やっぱり人口減と電子メディアの発達によって減りましたな。それでも今、およそ800万部あります。
佐藤 デジタルメディアは気になりますか。
渡邉 テレビが出てきた時も、これで新聞は抹殺されるだろうと言われたものだよ。確かに部数は減ったが、下げ止まると思っている。いかに電子化したって、学問する、論文を書くにはペンと紙が必要だし、本のほうが重要な個所を探しやすい。
佐藤 その通りだと思います。紙は3次元だから、必要な場所がすぐにわかる。2次元だと検索してデータを探しに行かなきゃいけない。
渡邉 まあ、新聞は販売にお金をかけ過ぎなければ、十分にやっていけるんですよ。現状、お金の心配はない。少なくとも賃下げはしない。僕が社長になった時、借金が1600億円くらいありましたよ。それを20年でゼロにした。今、内部留保している現預金がそのくらいある。社長になってから今日までが30年近く、その間に投資した額が7千億円を超えるので、返した金と貯蓄と投資額を合わせると1兆円稼いだよ。
佐藤 そのビジネスの才能はどこからきたんですか?
渡邉 僕は「販売の神様」と呼ばれた務台さんに取り立てられて、徹底的に仕込まれたからね。金勘定は務台さんの次に詳しいくらいだ。貸借対照表も、どこがツボか一目でわかるよ。
佐藤 会計士でもやっていけますね。
渡邉 これから公認会計士の試験を受けてみようかと思っている(笑)。
佐藤 それはいい(笑)。ちょっと前にある政治家から、渡邉さんに何かあったのかと、電話がかかってきたことがあります。あまりお姿が見えなかったから。今、その動静が話題になる方は渡邉さんしかいない。本日こうしてお会いしてお元気なのがわかりました。
渡邉 何カ月か前にね、この部屋で足を引っ掛けて倒れたのよ。膝をひねって、立ち上がろうとしても痛くて動けない。「おい」ってここで大声を出しても、秘書室に届かないんだな。それで2時間くらいそのままだったよ。幸い大事には至らなかったけどもね。老人は転倒が一番怖い。それは気をつけていますよ。