「団塊の世代」後期高齢化で変わる「終末期」の迎え方 医療崩壊()

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 日本の高齢化は急速だ。2025年には団塊世代は全員が75歳以上の後期高齢者になる。

 医療需要は高まる。特に高度成長期に団塊世代が移住してきた首都圏や関西圏で、その傾向が顕著だ。

 冒頭に掲げたグラフは、首都圏の75歳以上人口1000人あたりの、60歳未満の医師数の推移についてシミュレーションしたもので、情報工学の専門家である井元清哉教授(東京大学医科学研究所)との共同研究だ。

 これを見ると、首都圏のすべての県で医師不足が悪化することがわかる。最初のピークが2020年代後半から30年代前半だ。この時期に団塊世代が高齢化し、医療需要が急増するためだ。

 この時期の特徴は、東京近郊の神奈川・千葉・埼玉の医師不足が悪化することだ。2010年と比較して、およそ半分となる。これでは医療体制はもたない。

 ここまではすでに議論し尽くされたことだ。

 確かに、高齢者が急増するのは社会システムに大きな負担となる。ただ、団塊の世代が75歳以上の後期高齢者になる、いわゆる「2025年問題」は、高齢者が増えるという量的な問題だけではない。

 深刻なのは、団塊世代と従来の高齢者は大きく異なる価値観をもち、「質的な違い」があるかもしれないということだ。

親を看取るが子どもに頼らず

 私が主宰する「医療ガバナンス研究所」には、樋口朝霞さんという研究員がいる。北海道大学を卒業した看護師で、虎の門病院で3年間勤務したあとに研究の道に入った。

 彼女は高齢者施設の入居者の実態調査を進めている。その話は興味深く、死に方は生き様や時代を反映すると実感する。

 樋口さんによれば、「入居者の大半は80代の女性です」という。

 これまで私は、高齢者施設の性差についてあまり意識したことはなかったが、冷静に考えれば、女性入居者が多いのは当たり前だ。それは、女性の方が長生きするからだ。

 厚生労働省が発表した平成30年の「簡易生命表」によれば、平均寿命は男性が81.25歳であるのに対し、女性は87.32歳だ。約6年間長生きする。

 さらに日本人夫婦の場合、男性が年長のことが多い。厚労省の「婚姻に関する統計」によると、昭和50年の初婚のカップルでは、平均して2.6歳、男性が年上だった。

 これは団塊世代のデータだから、現在80代の戦前世代は、さらに年齢差があるだろう。

 この結果、80代の普通の夫婦は、夫が先立ったあと、妻は10年程度長く生きることになる。

 80代になると、多くの人が衰え、介護が必要になる人が増える。2014年に厚労省老健局が作成した資料によると、前期高齢者(65~74歳)の要介護認定率は4%だが、後期高齢者では31%に跳ね上がる。80~84歳で29%、85~89歳で50%だ。誰かのサポートが必要になる。

 従来、年老いた親の面倒をみるのは子どもの役割だった。興味深いのは、樋口さんが調査している施設の入居者の大半は、家族がいることだ。天涯孤独な独居老人ではない。

 彼らの多くは親を看取ってきた。ところが、自分が年老いると、子どもに頼ることなく、1人で施設暮らしをしている。

 これは、樋口さんが調査している施設に限った話ではない。1980年、親世代(65歳以上の高齢者)と既婚の子ども世代の同居率は52.5%だったのが、2016年は11.4%に低下している。いまや3世代同居は珍しくなった。

ありふれた存在だった「磯野家」

 なぜ、このような変化が生じたのだろうか。私は80代以上の高齢者の診療を通じて、彼らの生い立ちに興味を抱くようになった。

 現在80代以上の高齢者は、大正時代から昭和14(1939)年にかけて生まれた人たちだ。

 1939年といえば、1月に第1次近衛文麿内閣が総辞職、5月にはノモンハン事件勃発、そして9月にはナチス・ドイツがポーランドに侵攻し、英仏などがドイツに宣戦布告して第2次世界大戦が始まった。

 彼らは物心がついたときには戦争中で、その後も敗戦後の困窮の下で育つ。日本が本格的な復興を遂げるのは昭和25(1950) 年の朝鮮戦争からで、最も若い80歳の人でも、このときに11歳だった。当時のことを記憶しているだろう。

 ちなみに、団塊世代が物心つくのは昭和30年代だ。高度成長を謳歌し、神武景気の昭和31(1956)年の『経済白書』では、あの有名な「もはや『戦後』ではない」という言葉が使われた。

 80代以上の人々の幼少期は、空襲、餓え、戦死、戦災孤児などが当たり前だった。

 私の父は昭和9(1934)年、母は同14(1939)年生まれだが、彼らの口から何度も、そうした言葉を聞いた。

 今や過去の記憶となったが、戦争は日本人の共通体験だった。その影響は広くお茶の間でも共有された。

 昭和21(1946)年4月に福岡の地方新聞『夕刊フクニチ』で連載が始まり、昭和44(1969)年10月からフジテレビ系列で放送が続いている『サザエさん』も、その登場人物たちは戦争の影響を受けている。

 ネットを検索すると、磯野家に関する様々な情報が入手できる。磯野家の長女であるサザエさんは、カツオ、ワカメという年の離れた弟妹がいる。サザエさんは大正11(1922)年生まれ、カツオは昭和14(1939)年生まれ(テレビでは1936年)だ。

 実はフネは波平の後妻で、前妻はサザエさんを産んですぐに亡くなった。原作には波平とフネで、前妻の墓参りに行くシーンがあるという。

 サザエさんとカツオの年が離れているのは、波平が出征し、長く帰ってこなかったからという説と、サザエさんとカツオの間に男子がいたが戦死したという説が議論されている。

 原作者の長谷川町子さんは、大正9(1920)年に佐賀県小城郡(現多久市)で生まれ、13歳までを福岡で過ごす。父の死に伴い、東京に引っ越し、戦争中に長野県佐久郡、さらに福岡市に疎開する。そこで『西日本新聞』の絵画部の校閲係として働き、戦後、『サザエさん』の連載を始める。

 当時、長谷川さんの周囲では、磯野家のような家族がありふれた存在だったのだろう。今となっては想像もつかない。

教育への投資で大学進学率も上昇

 戦後、日本の復興の原動力となったのは、このような戦前世代だ。金の卵として東京や大阪の企業に集団就職した。

 集団就職は、昭和29(1954)年に東京都世田谷区の桜新町商店街が合同で求人を行い、東京都などが斡旋したことに始まるという。日本経済が高度成長から安定成長に移行する1970年代半ばまで続く。

 初期の集団就職の特徴は、中卒者が多かったことだ。昭和23(1948)年の学制改革で小学校までだった義務教育の期間が中学までの9年間に延長されため、中学卒業を待って就職した。昭和30(1955)年の高校進学率は51.5%で、約半分の中学生が卒業後すぐに就職している。日本の高校進学率が90%を超えるのは、昭和49(1974)年まで待たねばならない。

 当時の日本の平均年齢は27.6歳。2017年の46.9歳より20年近く若い。日本は若く貧しい国だった。

 戦前世代は真面目に働き、貯蓄に励んだ。家計貯蓄率は、1950年代半ば以降上昇を続け、1975年度にはピークの23.1%となる。このとき、現在80代以上の人は36歳以上で、日本社会の中核を担っていた。

 高度成長の終焉とともに家計貯蓄率は低下し、2013年にはマイナス0.9%となる。その後、上昇に転ずるが、2017年度で2.5%。米国を下回る。

 日本の貯蓄率が低下したのは、経済の停滞や高齢化が主な原因だ。戦後世代がだらしなかったからではない。

 ただ理由はともあれ、彼らは蓄えた資金を子弟の教育に投資した。それは大学進学率を見れば明らかだ。

 日本の大学進学率は低かった。昭和30(1955)年は7.9%(男性13.1%、女性2.4%)だ。団塊世代が初めて大学受験を経験した昭和41(1966)年で11.8%(男性18.7%、女性4.5%)に過ぎない。1955年と比べ、11年間で3.9ポイントしか増加していない。

 受験生の増加に大学の定員増が追いつかなかった側面はあるが、大学進学率が本格的に上昇するのは、その後だ。1966年から6年後の1972年には初めて20%を突破し、21.6%となる。6年間の増加率は9.8ポイントで、その前の6年間の2.5倍だ。

 ちなみにその後は、1976年に27.3%まであがり、80年代は、ほぼこのレベルで推移する。90年代前半から大学進学率は上昇に転じ、1994年に30%、2002年に40%、2009年に50%を突破し、2018年度の57.9%にいたる。

 話を戻そう。彼らを大学に送り出したのが、戦前世代だ。

 わが国の第1子出産年齢の平均は、1950~74年は24.88歳から25.96歳で推移する。出産年齢が上昇に転じるのは、その後だ。

 現在80代の女性が第1子を出産したのは、1950年代前半から60年代前半にかけてだ。彼らの子どもが大学に進学したのが1970年代前半から80年代。つまり、大学進学率が上昇した時期だ。彼らは自らが受けることはなかった大学教育に、貯め込んだ金を使ったのだろう。

自らの運命を甘受して生きる

 私は父親の仕事の関係で、1970年から1978年までを「日本毛織」の加古川社宅(兵庫県)で育った。工場長から工員さんまで職階に応じた住居があてがわれていた。

 幹部は大卒で、工員さんには中卒が珍しくなかった。子ども心にも、学歴が格差を生むことを実感したが、工員さんの子弟たちからも旧七帝大などの名門大学に多数進学した。共通するのは、お母さんたちが教育熱心だったことだ。

 この世代と付き合うと感じるのが、「自分は二の次」で周囲の人を助けようとすることだ。

「子どもの教育のため」に、自分のことは我慢を続ける母親は珍しくなかったし、「会社のため」に滅私奉公する父親は普通だった。年をとっても、この傾向は変わらない。最近、外来をやっていると「受験を控えた孫にインフルエンザをうつしたくないから、ワクチンを打って欲しい」と来る人が多い。

 樋口さんの研究で、80代の女性たちが家族はあるのに、「子どもたちに迷惑をかけたくない」と言って1人で施設に入所しているのも、基本的な価値観は同じだ。

 彼らは自分の親世代を看取り、子どもたちに高い学歴をつけさせた。ところが、同じことを子ども世代に求めていない。

 彼らと付き合って感じるのは、国家を含め他者に大きな期待をせず、依存しないという姿勢だ。彼らは「戦争が多くの人の人生を狂わせた」ということがあるが、だからといって、政府の責任を声高に追及することなく、肩を寄せ合って、ひっそりと暮らしてきた。自らの運命を受け入れてきたのだろう。

団塊世代が考える「終末期」とは

 これは団塊世代とは対照的だ。こちらは権利意識が強く、古い因習に縛られた日本を改革するため、闘争を続けてきた。本稿では詳述しないが、70年安保闘争、東大紛争、あさま山荘事件などの主人公は若き頃の団塊世代だ。

 この世代が社会人になると、恋愛結婚・核家族を好み、90年代に40代の働き盛りでバブル経済を牽引した。日本社会の変革者だった。

 この状況は現在も変わらない。

 東日本大震災以降、政府や東京電力の責任を追及している小出裕章元京都大学原子炉実験所助教などは、その象徴だろう。1949年生まれの団塊世代だ。

 近年亡くなった人では、元『噂の真相』発行人・編集長の岡留安則さん、元プロ野球選手・監督の星野仙一さん、元横綱の輪島大士さん、俳優の渡瀬恒彦さんなどが団塊世代だ。彼らが様々な点で日本を「変革」してきたのが分かる。

 2022年からは団塊世代が後期高齢者になる。政府は高齢者が急増し、社会保障が破綻することを危惧する。彼らの視点にあるのは量的な問題だ。

 確かにこれも問題だが、本質はそこではない。戦争前後で、日本人が質的に変わってしまっている可能性が高いのだ。彼らが戦前世代と同じ死に方を求めるとは考えにくい。

 医学の世界でも、戦争体験の影響については多くの研究がなされてきた。特に米国が熱心で、その主体は在郷軍人病院だ。退役軍人省がサポートする。

 ただ、彼らの関心は元兵士の健康、精神状態に限定される。私が調べた範囲では、戦争経験が老後や終末期の迎え方にどのような影響を与えたか、について調べた研究はない。

 それは、米国民が戦争被害を蒙ったのは、真珠湾などを除いて軍人に限定されているからだろう。空襲や原爆などの戦争被害の長期的な影響は、米国では検証しづらい。

 私は、戦争体験が現在の80代の終末期の在り方に大きな影響を与えていると考えている。団塊の世代も、方向性こそ違えど同じだ。

 多死社会を迎えるわが国で、どのように彼らを看取っていくかは重要な課題だ。

 死に方とは、畢竟、生き方の反映だ。

 彼らが、どのような思いで終末期を迎えていくか、実証研究を進めたいと考えている。また、この場で御報告したい。

上昌広
特定非営利活動法人「医療ガバナンス研究所」理事長。
1968年生まれ、兵庫県出身。東京大学医学部医学科を卒業し、同大学大学院医学系研究科修了。東京都立駒込病院血液内科医員、虎の門病院血液科医員、国立がんセンター中央病院薬物療法部医員として造血器悪性腫瘍の臨床研究に従事し、2016年3月まで東京大学医科学研究所特任教授を務める。内科医(専門は血液・腫瘍内科学)。2005年10月より東京大学医科学研究所先端医療社会コミュニケーションシステムを主宰し、医療ガバナンスを研究している。医療関係者など約5万人が購読するメールマガジン「MRIC(医療ガバナンス学会)」の編集長も務め、積極的な情報発信を行っている。『復興は現場から動き出す 』(東洋経済新報社)、『日本の医療 崩壊を招いた構造と再生への提言 』(蕗書房 )、『日本の医療格差は9倍 医師不足の真実』(光文社新書)、『医療詐欺 「先端医療」と「新薬」は、まず疑うのが正しい』(講談社+α新書)、『病院は東京から破綻する 医師が「ゼロ」になる日 』(朝日新聞出版)など著書多数。

Foresight 2020年1月8日掲載

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