古代「蹴る人びと」が恐れた「蘇我入鹿」の「祟り」 国際人のための日本古代史(119)
新国立競技場が2019年11月に完成した。こけら落としに選ばれたのは、人気アイドルグループ「嵐」やアーティスト「DREAMS COME TRUE(ドリームズ・カム・トゥルー)」のコンサートなどだった。
スポーツの予定も組まれ、2020年の元日には、「天皇杯JFA第99回全日本サッカー選手権大会」の決勝が行われた。さらに、1月11日には、「ラグビー大学選手権」の決勝も予定されている。東京オリンピックが終われば、サッカーやラグビーなどの「蹴球」の聖地になるだろう。
「鞠」は首?
ところで、新国立競技場には旧国立競技場からカトリック美術家・長谷川路可が製作した野見宿禰(のみのすくね)像とギリシャの女神像(フレスコモザイク壁画)が、壊されずそのまま移されている。野見宿禰は出雲国造家と同族で彼の末裔が菅原道真なのだが、ヤマトの当麻蹶速(たぎまのけはや)と相撲をとった人物として知られる。国技の元祖だから、国立競技場の壁画に採用されたのだろう。ただし、現代のような相撲ではなく、野見宿禰は当麻蹶速を蹴り殺している。そこで今回は、古代の「蹴る人びと」の話だ。
サッカーは日本語ではア式蹴球(アソシエーションフットボール)、ラグビーは、ラ式蹴球、アメフトは米式蹴球と呼ぶ。文字通り「蹴球」は、球を蹴る競技だが、日本人はすでに7世紀から、球を蹴っていた。『日本書紀』皇極3年(644)正月条に、次の記事が載る。
中臣(藤原)鎌足は蘇我入鹿の専横に危機感を覚え、共に行動すべき英傑を求めていた。中大兄皇子に心を寄せていたが、たまたま法興寺(飛鳥寺。奈良県高市郡明日香村)の槻(つき)の木の下で打毬(ちょうきゅう)が行われたので、これに加わり、中大兄皇子の沓が脱げると、すかさず拾い上げ、捧げた。こうして2人は意気投合し、蘇我入鹿暗殺の策を練っていったのだった。
ちなみに、中大兄皇子たちが興じた「打毬」が、今日一般に信じられているような「蹴鞠(けまり)」だったのか、「ポロ」だったのか、はっきりわかっていない。ただ「鞠」で遊んでいたことだけは間違いないし、のちの時代の藤原氏は、これを「蹴鞠」と解釈していた気配がある。
問題は、「法興寺の脇で鞠を蹴って転がす遊び」には、『日本書紀』編者の意地の悪い暗示が込められていたのではないかと思われることだ。「鞠」が、蘇我入鹿の首に思えてならない。「打毬の出逢い」の話は、入鹿の首を弄ぶ目的で創作されたのではなかろうか。その根拠を、説明していこう。
「詣でると腹痛」
複数の地域で「蘇我入鹿の首が飛んできた」と伝わる。1番遠いのは、高見山(たかみさん=三重県松阪市飯高町と奈良県吉野郡東吉野村との境)だろう。山中のかつての街道筋(和歌山街道)には巨大な首塚(五輪塔)が祀られる。蘇我入鹿の首は多武峰(奈良県桜井市)を越え、高見山の山頂までやってきたという。
この一帯の人びとは中臣鎌足を祀る多武峰を憎み、高見山の中で「鎌足」と言ってはいけないし、「鎌」をもって山中に分け入ると中臣鎌足を思い出すから置いていく、などと伝えている。五輪塔の裏手には能化庵(のうげあん)の跡地があって、ここは、蘇我入鹿の妻と娘が入鹿を弔うために出家して過ごした場所だという。
ただし、「入鹿の話は後付け」という説もある。古くから「多武峰と高見山は仲が悪く、高見山が負けてその頭が落ちてきた」という伝説があるからだ。吉野川の川下から見ると、2つの山は背比べをしているように見えるため、高見山を無理矢理蘇我入鹿に結びつけるという発想に至ったのだろうという(柳田國男『柳田國男全集第4巻』筑摩書房)。
しかし、「多武峰と仲が悪い」「蘇我入鹿の首が飛んできた」という類の話は、蘇我氏ゆかりの地ならいくつも存在するから、柳田國男の説を安易に受け入れることはできない。飯高町には草鹿野(そうがの)という地名があるように、この地域と蘇我氏にも、何かしらの接点があったのだろう。
奈良県橿原市曽我町の東の端で小綱町との境に「首落橋(くびおちばし)」がかかっていて(現存せず)、近くの家に蘇我入鹿の首が落ちたという。そこは「オッタや(屋)」と呼ばれるようになった。
小綱町には入鹿神社が鎮座し、ここは蘇我入鹿の母が身を寄せ、入鹿を育てた場所だという。地域の人びとは昔から多武峰の談山(たんざん)神社とは仲が悪く、詣でると腹痛を起こす(らしい)。いまだに遠足で訪れても、児童は山門の中に入らない。また小綱町では、入鹿の死に時を鶏が知らせたので、鶏を飼わない。
飛鳥寺(法興寺)にも入鹿の首は飛んできた。中臣鎌足を追ってきたのだ。そこで供養塔(首塚)を建てたらしい(五輪塔そのものは、鎌倉時代から室町時代のものと考えられている)。
中臣鎌足は飛鳥の東の高台に逃げたが、上(かむら)の集落付近で、「もう追ってこぬだろう」と言ったことから、「茂古森(もうこのもり)」と名付けられた。しかし入鹿の首は、結局、談山神社の上手に堕ちたという。その夜、天地は大いに荒れたと伝わる。
罪なくして殺された
『日本書紀』は、入鹿暗殺後、事件に立ち会った斉明女帝の周囲に、笠をかぶった異形の者(鬼)がまとわりついたと記録するが、『扶桑略記』は、この男を「豊浦大臣(蘇我入鹿)」と記している。
斉明天皇は最晩年、北部九州の朝倉橘広庭宮(福岡県朝倉市)に赴くが、鬼火が現れ、近習の者たちが病で亡くなり、斉明天皇も崩御された。その葬儀の様子を、例の鬼が見守っていたので、皆怪しんだとある(『日本書紀』)。おそらく、蘇我入鹿が祟って出たと、多くの者が恐れたのだろう。
蘇我見直し論が活発になり、蘇我入鹿が改革派だったことが認知されてきた。とすれば、蘇我入鹿は罪なくして殺されていたわけで、祟る神と恐れられていた可能性が高い。
しかも中臣鎌足の子の藤原不比等が権力者だった時代に記された『日本書紀』によって、蘇我入鹿は大悪人に仕立て上げられ、さらに、蘇我氏の改革事業の手柄は横取りされてしまったのだから、蘇我入鹿は恨んでいると、誰もが思っていただろう。
蘇我入鹿ゆかりの土地の人びとが、いまだに中臣鎌足を祀る談山神社を嫌っているのは、むしろ当然のことと思いいたる。
「馬鹿にするお祭」
日本初の法師寺で入鹿の首塚のある法興寺の構造は、少し特殊だった。高句麗様式の伽藍は塔を中心に東西と北側に3つの金堂を並べる設計で、普通なら、南門を1番大きく造る。ところが法興寺の場合、西門が大きかった(非対称でもある)。その先にあるのが「打毬」が行われた例の槻の木の広場で、さらに、その先に進めば、蘇我本宗家の拠点となった甘樫丘(あまかしのおか)に至る。蘇我氏の重鎮たちは、甘樫丘と法興寺を往き来するのに、便利な西門を利用していたのだろう。
また、発掘調査の結果、西門のすぐ脇に「入鹿の首塚」が位置していたことがわかった。『日本書紀』は蘇我入鹿暗殺現場を飛鳥板蓋宮と記すが、暗殺実行犯は法興寺の西門を出たところで、待ち伏せしていたのではなかったか。だから、ここに「記念碑」として供養塔が建てられ、いまだに野の花が手向けられるのだろう。
そもそも、蘇我系の人びとが行き交う槻の木の下で反蘇我派の中大兄皇子と中臣鎌足が出逢ったという『日本書紀』の設定自体が、不自然きわまりなかった。しかも、「毬(鞠)を転がす遊び」をしていたという記事にも、作為(悪意)を感じる。
さらに、談山神社で春と秋に今でも行われている「けまり祭」も、蘇我入鹿を愚弄しているように思えてならない。
大化改新にちなんだ祭りと言うが、もし正義が『日本書紀』の証言通り藤原側にあったのなら、飛鳥寺(法興寺)の隣で、正々堂々と蹴鞠の行事を執り行えば良かったはずだ。それができないから、多武峰で細々と「蘇我を馬鹿にするお祭り」を続けてきたのだろう。
あまり世間には知られていないが、奈良盆地南部に古くから住む人びとは、藤原氏を冷ややかに見つめている。