宮坂学(東京都副知事・ヤフー元会長)【佐藤優の頂上対決/我々はどう生き残るか】
スマホ・ネイティブ
佐藤 ヤフーでは、どんな仕事から始められたのですか。
宮坂 株価の終値情報をネットで見られるようにする仕事でしたね。その後、ニュースとか天気予報とかスポーツとか、メディア系のサービスのヤフーニュースを担当するようになり、その後はEコマース(ネット通販)をやりました。
佐藤 私が2002年に捕まるまで、外務省には外部とつながるインターネットは各課に1台しかありませんでした。それでみんなが見ているのはヤフーでしたよ。
宮坂 都庁もまだあんまりインターネットを使えていないですね。セキュリティの問題があるからなのですが、官公庁は気にしすぎているところもあるかもしれない。
佐藤 それでヤフーでトップまで上り詰められる。しかも44歳という若さで社長に就任した。
宮坂 社長になるなんて、入社してから一度も考えたことがなかったんですよ。出世欲はなかったし、それまで16年間率いてきた創業社長の井上雅博さんがすごい人でしたから。ただ自分が指名されたのは、井上さんが作ったヤフーを壊すためなのだとはわかりました。
佐藤 というのは?
宮坂 井上さんはパソコンのヤフーを作った。でもその頃、世の中にはスマートフォンが出てきて、その可能性がどんどん広がっていたんです。だから私の役割は、パソコンのヤフーをスマートフォンにシフトすることだったんですよ。僕が引き継いだ時、ヤフージャパンのトラフィック(ネットなどでやり取りされるデータ量)は、スマートフォンがアクセスの11・2%でした。それが辞める時には、スマートフォンとパソコンで7対3くらいになった。だから一応、シフトはできたんです。
佐藤 「爆速経営」と言われていましたが、そうした役割を果たされたんですね。
宮坂 ただ、私がどうしてもできないことがあったんですよ。それはスマホ・ネイティブ的なものを作ることでした。
佐藤 LINEとかメルカリとか。
宮坂 そうです。最初からスマートフォンがある世代の発想ができない。何度か挑戦してみたのですが、うまくいきませんでしたね。もうその時点でヤフーは中小企業ではなく大企業でしたから、自分がやろうとすることができないリーダーではマズい。それで2年前の暮れに、今の社長の川邊健太郎に「そろそろ代わろう」と話したんです。
佐藤 川邊さんも若いですね。
宮坂 僕より七つ下です。僕が社長になった時、社長のやる一番大事な仕事は何ですかと、ある経営者に尋ねたら、次の社長を作ることだと言われまして。
佐藤 それは全く正しいですよ。
宮坂 特に僕はカリスマ創業社長の後の2代目なので、余計に意識していたところもあります。だいたいどの歴史を見ても、2代目は目立たないじゃないですか。
佐藤 徳川秀忠みたいに。
宮坂 ええ、そして3代目をうまく作れば、4代目、5代目と続くでしょう。
佐藤 家光を作るということですね。
宮坂 最低でも、僕が社長になった44歳より若い社長にしたいと思っていました。
佐藤 なるほど。私の最大の失敗は後継者を作れなかったことですよ。
宮坂 そうですか。
佐藤 よく、余人を以って代えがたいと言うでしょう。でも組織はそれではダメだと思うんですね。私がやっていた主任分析官というのは、外務省に初めてできた、国際情勢全体を見るポストですけれども、その後になくなってしまった。
宮坂 あまりにもスペシャルだったんですね。
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