宮坂学(東京都副知事・ヤフー元会長)【佐藤優の頂上対決/我々はどう生き残るか】

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 大手ITヤフーの成長を牽引してきた指揮官が、小池百合子知事肝いりの人事で都庁に招かれた。民間出身の副知事は、石原都政時代の作家・猪瀬直樹氏以来だ。すぐさま「東京データハイウェイ」構想が発表されたが、いったい東京をどんな都市に作り変えようとしているのか。

佐藤 今回、初めてお目にかかりますが、宮坂さんと私には二つ共通点があるんです。まず同志社出身であること、そしてもう一つは終身雇用的な道を歩んでこなかったことです。宮坂さんのキャリアは、インターネットが普及していく過程そのもので、非常に興味深い。まずは大学の話から伺いますが、何年の入学ですか。

宮坂 1986年ですね。

佐藤 私は79年入学、85年に大学院を出ていますので、すれ違いですね。

宮坂 京田辺キャンパスの1期生です。京都から遠いし、何にもないし、もう騙されたと思いましたね(笑)。

佐藤 私は移転反対闘争をやっていました。いま生命医科学部でも授業をすることがあるので、京田辺に行くことがありますが、とにかく学食以外何もない。

宮坂 もっとも僕は最初の2年間、まったくと言っていいほど学校に行かなかったんです。アルバイトばかりしていた。

佐藤 バイトはどこで?

宮坂 祇園のスナックとかクラブみたいなところです。労働時間が長くて、単価が高い。自分で学費を稼がなくてはいけなかったんですよ。

佐藤 当時はバブルでしょう。

宮坂 すごく景気がよかった。みんな滅茶苦茶なお金の使い方をしていましたよ。祇園ではタクシーが全然捕まらなかった。

佐藤 私はその頃、モスクワで石鹸を買うのに行列に並んでいました。

宮坂 はははは。学校には行かなかったんですが、京都の街はよかった。

佐藤 京都には不思議な磁力があって、外に出たくなくなりますからね。

宮坂 古本屋が多いのがいいですよ。100円あれば古本買って、一日過ごせる。

佐藤 私の本棚にも京都の古本屋で買った本がたくさん並んでいますよ。

宮坂 お金がなくても全然困らずに生きていける街だったし、僕のように何もしていない人もたくさんいて、大学に行かなくてもあまり疎外感がなかったですね。半年働いてお金を貯め、半年海外に行こうと思っていたんですが、街が居心地よくてズルズルとそのまま過ごしていました。そんな時、アメリカにシリコンバレーという街ができつつあることを知ったんですよ。

佐藤 そこが原点ですね。

宮坂 結局、僕は1年ダブって1年休学したので、2年遅れで卒業したんですが、バブルの最後の方でしたから、それなりに金融機関などから内定はもらえたんです。

佐藤 行かなくてよかったですね。

宮坂 本当にそう思いますね。当時、祇園で企業の偉い人たちがとんでもないお金の使い方をしているのを見て幻滅したこともあって、若気の至りというのか、大企業は止めようと思ったんですよ。

佐藤 それで就職はどうされたんですか?

宮坂 もう潰れてしまいましたが、広告やパンフレットを作るユー・ピー・ユーというPR会社の大阪支社に入りました。入社するとアップルのマック、マッキントッシュのコンピュータを1人1台支給とあったのが決め手です(笑)。当時はそれがものすごく魅力的だった。だからモノに釣られて就職先を選んだわけです。周りからはどうして金融機関に行かないのかと言われたものですが。

佐藤 それは何か導きのようなものがあったのかもしれない。

宮坂 それはちょっと思いますね。

佐藤 そこには何年くらい在籍されたのですか?

宮坂 6年です。確かにマックはもらえたけれど、あまりにも給料が低かった。ボーナスは(6年間で)2回しかもらっていません。貧乏生活で、28歳まで風呂のあるところに住めませんでした。バブルが崩壊して、受注型の小さなプロダクションはもろにその影響を受けた。そんな時、たまたまインターネットに出会ったんです。

佐藤 90年代の前半ですね。

宮坂 会社の先輩がうちに泊まりに来て、インターネットについてあんまり面白そうに話すものだから、一度見てみようと思ったんです。会社が出した「情報技術と未来組織:デジタルテクノロジーとネットワークの生産性」という雑誌も持ってきてくれて、そこには慶応大学教授の村井純さんや孫正義さんの弟の孫泰蔵さんも出ていた。それで興味を掻き立てられた。でも当時は大阪や京都に民間のプロバイダーがないんですよ。

佐藤 東京にしかない。

宮坂 どこで使えるか調べたら、研究機関にはあるらしい。そこで電話帳の上から順に研究機関らしきところに電話をかけていって、大阪の千里中央にある財団を見つけました。それで、その財団へ行って使わせてもらった。

佐藤 どうでした?

宮坂 アメリカのホワイトハウスのHPにつないだんですが、遅かったので感動まではしなかった。ただ何となく、これに賭けるしかないな、とは思ったんですね。

佐藤 それも導きですね。

宮坂 あの時、もっと給料をもらっていい生活をしていたら、そんなこと考えなかったはずです。だから人生はつくづくわからないなと思いますね。それでHTML(プログラミング言語)を学んで、社内で他の企業のHPを作る仕事を立ち上げましたが、あまりにも面白いので、インターネットの仕事だけしたいと思うようになった。たまたまその頃、ヤフーという会社が東京にできて人を募集していたんですよ。

佐藤 できて間もないころですよね。

宮坂 僕が入社したのは1997年で、会社ができて1年くらい。まだ50人ほどしかいませんでした。

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