梅宮、高倉、菅原・・・ 東映「ヤクザ映画」スター秘話 本物のヤクザと親しくなる理由

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ヤクザとの交流

 前出「仁義なき戦い」シリーズに主演した菅原文太さんは、梅宮さんや松方さん、健さんとは違い、東映の生え抜きではない。弱小会社の新東宝、松竹を経て、1967年に東映入りした。既に30代半ばだった。

 中島監督は「懲役太郎 まむしの兄弟」(1971年)や「現代やくざ 血桜三兄弟」(同)などで文太さんを主役に据えた。

「あのころの文ちゃんは目がギラギラしていてねぇ。それが良かった。流れながれて東映に来たせいでしょう。結局、あのころの彼がやったのは目をぎらつかせながら、飢えているヤクザばかり。自分と同じだから、ピタッとハマった」(同・中島監督)

 東映ヤクザ映画の時代は1960年代から70年代。特に黄金期だったのは70年を挟んだ約10年だ。当時を知る俳優たちは口々に「親分たちがしょっちゅう京都の撮影所に遊びに来ていた」と振り返る。反社会勢力の定義がないどころか、そんな言葉すらなかったころだ。暴力団排除条例などの法令もまたなかった。

「親分たちのファッションをみんなで参考にしていた」(当時を知る俳優)。当時のヤクザはお洒落だったという。特にスタイリッシュとされたのは元三代目山口組若頭補佐の故・菅谷政雄氏。俳優とヤクザが撮影所の外で飯を食ったり、酒を飲んだりすることも珍しくなかった。

 とはいえ、なぜ、ヤクザ映画の俳優と本物のヤクザが交流したのか? 答えは簡単だ。

「実録作品などでモデルにしている相手から『撮影現場が見たい』などと言われたら、断れない」(同・ヤクザ映画の時代を知る俳優)

 実録作品に主演する俳優が、モデルとなる親分に挨拶に出向くケースもあった。なにしろ当時の東映社長の故・岡田茂氏にして山口組3代目の田岡一雄組長と交流があったのだ。その縁もあって、健さん主演の実録作品「山口組三代目」(73年)の製作が実現した。

 岡田社長は米映画「ゴッドファーザー」の世界的ヒットに本作のヒントを得たとされている。「山口組三代目」もまた大ヒットした。たが、この作品がヤクザ映画の曲がり角となる。

 それまでも警察はヤクザ映画のヒットに苦虫を噛みつぶしていた。ヤクザを美化していると考えていたからだ。日本最大のヤクザ組織の組長を主人公に据えた実録作品が作られたことによって警察は我慢しきれなくなり、実力行使に乗り出し始めたのだ。

「山口組三代目」の続編は、「山口組三代目襲名篇」のタイトルで公開されるはずだったものの、警察のクレームなどによって「三代目襲名」(1974年)に変更され、山口組の名前が外された。第3作も作られるはずだったが、これは中止に追い込まれた。

 ついにはエンターテインメントだったはずのヤクザ映画全体が、日陰者扱いされるようになってしまう。観客動員数も減った。

 もっとも、中島監督は警察の動きがヤクザ映画の黄金期を終わらせたとは思っていない。時代の変化が大きいと考えている。黄金期の1970年前後は学生運動や労働運動の嵐が吹き荒れ、社会の矛盾や歪みが浮き彫りになっていた時期に重なる。

「組織の底辺にいる人間の生き様を描く映画が時代に合ったのでしょう。そもそもヤクザを美化するつもりはなく、人間を赤裸々に描くには、登場人物をヤクザにしたほうがいいと考えていました」(同・中島監督)

 梅宮さんが亡くなった際、テレビ各局は代表作として前出「仁義なき戦い」を流した。もはや誰もヤクザ映画のことを、ヤクザの美化などとは思っていないのではないか。

高堀冬彦(たかほり・ふゆひこ)
ライター、エディター。1990年、スポーツニッポン新聞社入社。芸能面などを取材・執筆(放送担当)。2010年退社。週刊誌契約記者を経て、2016年、毎日新聞出版社入社。「サンデー毎日」記者、編集次長を歴任し、2019年4月に退社し独立。

週刊新潮WEB取材班編集

2019年12月30日掲載

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