中曽根康弘 速記記者だけが知る「昭和の首相」の優しさと魅力
2019年も数多くの有名人が鬼籍に入った。政界においては、中曽根康弘元首相が11月29日に101歳で亡くなったことは記憶に新しいところだろう。令和に入って、昭和時代の首相経験者はついに一人もいなくなったことになった。
中曽根氏といえば、首相時代に、故レーガン米大統領と「ロン」「ヤス」と愛称で呼び合う関係を作り上げ、日米同盟を強化したことで知られる。奥多摩にある日の出山荘にレーガン大統領を招待した際も非常に話題になった。
内政では「戦後政治の総決算」を掲げ、国鉄(現JR各社)、電電公社(現NTT)、専売公社(現JT)の民営化を進めるなど、数々の業績を残している。一方で、戦後の首相として初めて靖国神社に公式参拝したほか、生涯にわたり憲法改正を訴えつづけた。また、本人も海軍主計士官出身で若いころは「青年将校」と呼ばれていたことから、どうしても右派、タカ派というイメージがまとわりついてきた。
こうしたことは各新聞の追悼記事などにも触れられていることだが、意外に知られていないのが、気配りができる人で、国会で働く職員からも人望があったことだ。
ジャーナリストの菊地正憲氏が国会速記者たちを取材した『速記者たちの国会秘録』(新潮新書・2010年刊)で、中曽根氏の知られざる一面を紹介している。以下、同氏のエピソードを引用してみよう。
(なお、議会での発言を記録する国会速記者は明治23年の第1回帝国議会から導入されてきたが、2006年に国会速記者養成所は廃止。現在は音声自動認識システムなどにとって代わられている)
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〈ここまで敢えてあまり触れなかったが、私が取材した数多くの元女性速記者の間で断トツの人気があったのは実は中曽根だった。昭和20年代前半の国会を知る元衆院速記者の森和子さんが記憶をひも解く。
「最初に見たときから『背が高くて素敵な人だな』と思いました。それに速記を担当しても、完璧なほど無駄な言葉がないんです。まだ20代なのに、優秀で感心しました。将来は必ず首相になると確信していました。みんな憧れていましたよ」
中曽根の初当選は、田中角栄と同じ昭和22年。森さんが衆院速記者として就職したちょうど同じ年でもある。
「これも私が速記者になって間もなくのころですが、同僚の男性速記者からすまなそうに『次の番、ちょっと代わってくれないかな』って頼まれたんです。私が『誰なの?』と聞いたら、『中曽根さんなんだよ』と困ったような顔で答えました。私は喜んで代わってあげましたが、難しい言葉がズバズバ出てくる中曽根さんは『難物』でもあったんです。でも、それが格好良かったんですよ」
まさに切れ者という印象を与えたようだが、実際、中曽根は若いころより改憲を真正面から訴えて「青年将校」と称されるなど、右派の理論家でかなり目立つ存在ではあったのだ。
続いて赤松年子さんが、こんなエピソードを明かした。
「20年代後半のころ、国会内の食堂で、女性速記者仲間と食事をしていたら、給仕さんがお盆に山盛りのミカンをテーブルに持ってきて、ぶっきらぼうに『ほれ、あっち、あっち』と目配せしたんです。奥の方で中曽根さんが『食べろ、食べろ』という風に口を動かして、ニコニコしながら手を振っていたんです。お互い顔見知りではありましたから、食堂に注文して届けてくれたんです。私たちは『中曽根さんからの差し入れだ!』なんて小躍りして、おいしくいただいた覚えがあります。いつも勇ましい発言をして、ちょっと怖い印象もあったけど、根は優しい人なんだな、と感激しました」
事程左様に、議場の内外を問わず、彼らは一人の人間として、国民の代表たちをしっかり見つめていたのだ。こういった記憶の断片に、私の心が躍った瞬間は数え切れないほどだった。
さて、中曽根は、こうした速記者たちの姿を今でも覚えているだろうか。
記録的な猛暑がようやく去り、一気に冷風が肌を撫でるようになった平成22年9月下旬、東京都内にある中曽根の事務所を訪れた。背筋を真っ直ぐに伸ばし、なお矍鑠(かくしゃく)とした「往年の青年将校」が、目の前に座っていた。(注・当時92歳)
「……ああ、言われてみれば、そういうことが20年代の終わりごろに1度、あった気がしますね。『おあがんなさい』って言ってね」
例の「ミカン」の話を切り出すと、微笑を浮かべながら、間をおかずに「覚えている」と答えた。
「いつもお世話になっていると思ってね。私の発言は速くて、難しい言葉も使うものですから、間違えないように速記するのは難しい作業だと思っていました。『ご苦労さん、ありがとうございました』という意味を込めたのです」
若き女性速記者たちの熱い視線を意識してはいなかったようだが、それでも、些細とも思われる場面を明確に記憶していたことに私は驚いた。
中曽根は、昭和22年の衆院選初当選のころから、「大衆の耳に伝わるように、常に分かりやすく、印象的な言葉を使って発言する」ことを心がけていたとも話した。議場での立ち居振る舞いについては、本書第2章の元速記者の証言にも登場した「反骨の政治家」斎藤隆夫(注・戦前、軍部の政治介入に対して議会で「反軍演説」を行ったことで知られる)を見習い、「悪びれず、姿勢を正して堂々と」振る舞うことを信条としていたという。〉
昭和の宰相は、平成、令和とは一味違ったようだ。