「不倫くらいで謝罪なんて呆れてものが言えないね」 梅宮辰夫さんが語っていた「芸能界への遺言」

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前編【勝新さんから“玉緒と寝てやってくれ”と頼まれて――」 梅宮辰夫さんの豪快過ぎるトーク】からのつづき

 梅宮辰夫さんが亡くなったのは2019年12月のこと。早いものであれからもう4年もたつ。

 最晩年の3年間、梅宮辰夫さん(以下・敬称略)はたびたび「週刊新潮」の取材に応じてきた。

 勝新太郎さんの仰天エピソードも披露された前編に続き、後編では「闘病」「家族」そして「芸能界への遺言」についての豪快トークをご紹介しよう。

(「週刊新潮」 2019年12月26日号掲載記事をもとに再構成しました)

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30代半ばでがんに

〈梅宮さんは1938年生まれ。東映ニューフェイスとしてデビューし、銀座、ネオン街の顔役として鳴らした。一方、私生活では1972年にクラウディアさんと入籍すると、まもなく愛娘・アンナさんが誕生。同時期に出演した「仁義なき戦い」が空前のヒットを記録し、公私ともに絶頂にあった。だが、そんな折も折、梅宮さんを最初の“がん”が襲う。〉

 最初のがんが自分の人生を見つめ直す転機になったのは間違いない。アンナがまだ2歳だった74年に、前触れもなく片方の睾丸が腫れ出して、結局、それが“精巣がん”だと分かった。しかも、左の肺にも転移していた。両親は担当医から「ひょっとしたら2カ月もたないかもしれない」と告げられたそうです。

 その頃の心境は“後悔”の2文字ですよ。まだ30代半ば。こんなに早くお召しが来るのなら、結婚なんてするんじゃなかった。子供なんて作らなければよかった――。残される方も可哀想じゃないですか。もう、そればかり考えていました。

 当時としては最先端の放射線治療に抗がん剤、丸山ワクチンも打ったし、“さるのこしかけ”を煎じて飲んだことも。ただ、幸いなことに医学の力でがんに打ち克つことができた。肺に写る白い影が消えたときは本当にホッとしたね。その後、何度となくがんに罹ったけど、民間療法ではなく医学を頼りにしたのは、戸越銀座で開業医をしていた親父の影響が大きい。

 とはいえ、うちは代々の“がん家系”。親父は5人兄弟ですが、全員が胃がんで亡くなっている。だから、一度がんを経験した後は、「もう先は長くないな」と感じることが多くなった。

 それ以降、毎晩の銀座通いから足を洗って、1日に3箱半吸っていたハイライトもパタッとやめた。京都の撮影所で仕事があっても、最終の新幹線で東京にトンボ返りする生活を続けました。帰宅する頃には、娘はとっくに夢の中。それでも、生きてアンナの寝顔を見られるだけでよかった。がんになるまで自分がそんな生活を送るなんて考えもしなかったよ。それくらい人生観が一変したんです。

〈以降、梅宮さんは胃がんや十二指腸乳頭部がん、前立腺がん、そして、2019年1月に手術した尿管がんと6度のがんを乗り越えてきた。2018年には都内の自宅を引き払い、真鶴へと引っ越している。〉

 真鶴で海を眺めていたお陰で、寿命が延びた気がするね。僕はもともと海が大好きで、クルーザーを売るまでは、よく係留された船のなかで寝たものだよ。水平線から昇る朝陽を遠くに見ながら、沸かしたてのコーヒーを愛用のマグカップで飲むんです。季節によっては海面からうっすらと湯気が立ち上るんだけど、まるで映画のワンシーンを観ているような気持ちなんだ。

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