新潟女児殺害事件「車ではね2度首を絞め殺害でも無期懲役」で裁判員制度の「自殺」
不公平さは当然
見知らぬ男にいきなり車で撥ねられ、2度にわたって首を絞められた少女は、3度も死の恐怖に見舞われ、苦痛と絶望のうちに命を落とした。事件が〈際立って残虐〉であることは疑いようがない。
「裁判員裁判に求められるのは被告人、被害者遺族、そして市民すべての共生を図ること。裁判の結果は遺族が新たな一歩を踏み出せるものであってほしい。ただ、今回の判決にはそうした要素は見当たらなかった。遺族の傷がより深まったように感じます」(同)
実際、最愛の娘を失った遺族は公判後に発表した談話で〈加害者に寛大な司法で憤りを感じているというのが、現在の偽らざる心境です。娘の存在は何だったのか、これでは娘が浮かばれないと思います〉と無念を滲ませている。
無論、会見に臨んだ裁判員のように、まともな感覚を持った裁判員にすれば、死刑回避は苦渋の選択だったに違いない。
刑事訴訟法に詳しい甲南大学法科大学院の渡辺修教授によると、
「量刑を判断する際、裁判官は裁判員に類似事件のデータを渡してレクチャーを行います。要は、永山基準をもとに作られたプロの裁判官の考え方を押しつけるわけです。裁判員は法律の素人なので、それに従わざるをえないでしょう。そうなれば、死刑か無期かの判断は裁判官が握ることになる。ただ、本来、裁判員に求められているのは、“被害者がひとりでは死刑にできない”と過去の基準を鵜呑みにすることではなく、“被害者がひとりでも死刑は有り得るか”を議論することなのです」
新潟地裁は「公平性」という言葉を死刑回避の理由としたが、犯罪被害者支援弁護士フォーラム事務局長の高橋正人氏に言わせると、
「職業裁判官の下す判決には市民感覚が反映されておらず、それを是正するために裁判員制度が始まりました。ですから、制度の導入以前と以後で判決が異なるのは分かりきったこと。不公平になるのは当然の結果です。もし被告人にとっての公平さにこだわり続けるなら、100万年先も類似の事件は同じ量刑でなければなりません。また、裁判所は被告人への公平性を重視する一方で、被害者や遺族にとっての公平性は全く考慮していない。被告人の命を、被害者の命の何倍も重く見ているのでしょう」
評論家の呉智英氏も、
「法律の解釈は時代に応じて変わっていきます。それなのに、30年以上も前の永山基準を後生大事にする意味などあるのでしょうか。裁判員候補者の辞退率が7割近くに上るのも、裁判員の意見が判決に影響しない現状が関係しているように感じます」
永山基準の呪縛は、裁判員制度の空洞化にも繋がっていたのである。
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